三帝同盟
1873年締結のドイツ・オーストリア・ロシアの三国による対フランス同盟。ただオーストリア、ロシアは仲が悪く崩壊した
三国同盟
1882年に成立したドイツ・オーストリア・イタリア三国の秘密軍事同盟。当初はビスマルクの構想したフランス孤立化のためであったが、次第にロシア、イギリスに対抗する意図が強くなった。
再保障条約
1887年、ビスマルク時代のドイツがロシアとの間で締結した秘密軍事条約。1890年に消滅した。
サルデーニャ王国
イタリア統一運動の中心となった国家
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世
サルデーニャ王国の国王であったが、首相カヴールを登用、イタリア統一戦争を進め、北・中部イタリアの併合を進める。初代イタリア国王
カヴール
サルデーニャ王国の1852年からの首相で、19世紀後半のイタリア統一を主導し、1861年にイタリア王国を立憲君主国として実現させた。
イタリア統一戦争
イタリアの統一を目指すサルデーニャ王国が、フランス(ナポレオン3世)の支援を受け、1859年に起こしたオーストリアとの戦争。サヴォイア、ニースをフランスに譲り、支援してもらった。優勢に戦ったが、フランスが単独で講和したため戦争は中断され、統一には至らなかった。
ロンバルディア
イタリア統一戦争にて、サルデーニャ王国がオーストリア軍と戦って敗れたため、オーストリアの支配が復活した。
ガリバルディ
19世紀後半のイタリア統一運動(リソルジメント)で活躍した軍事指導者。青年イタリアの影響を受けながら各地で蜂起に参加。1848年ミラノ蜂起、ローマ共和国、サルデーニャ王国の対オーストリア戦争などに義勇兵:千人隊(赤シャツ隊)を率いて戦うも敗れる。ただ両シチリア王国を占領し、献上した
イタリア王国の成立
普墺戦争でヴェネチア、普仏戦争でローマ教皇領を獲得し、1861年、サルデーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世を国王として成立。首都はトリノ。これでイタリア統一は一応達成、さらに1871年にローマを首都として完成する。
ムッソリーニ
イタリアのファシズム指導者。第一次世界大戦後ファシスト党を組織し、1922年に政権を獲得。
ラテラノ条約
ローマ教皇とイタリアの和解に関する条約。1929年、イタリアのムッソリーニ政権とローマ教皇庁の間の条約。ヴァチカン市国の独立を認めた。
未回収のイタリア
南チロル、トリエステなどイタリア王国成立後もオーストリア領として残された地域。イタリア人の居住者が多かったことから、世論は強くその併合を求め、国際的な紛争の要因となった
南下政策
18~20世紀初頭の、ロシア帝国の黒海方面、バルカン半島および中央アジア、東アジアで勢力を南下させ拡大する動き。不凍港を求めたため。特に帝国主義時代には世界戦争の一因となった。
クリミア戦争
1853~56年、ロシアが南下政策を積極化させ、オスマン帝国に宣戦したことに対し、イギリスとフランス及びサルデーニャがオスマン帝国を支援して列強間の戦争となった。ロシアが敗北し、パリ条約で講和、オスマン帝国の領土は保全され、ロシアのバルカン方面での南下はいったん抑えられた。イギリスは南下政策からインドを守るため、フランスは領土が欲しいため支援した
セヴァストーポリ要塞
クリミア半島南端のロシアの要塞。クリミア戦争で、1854年、フランス・オスマン帝国連合軍との激戦地となった。
ナイチンゲール
イギリス人。19世紀中頃、最初の従軍看護婦としてクリミア戦争に参加。野戦病院での看護を経験して、病院・看護の改革を志す。近代看護と看護教育の創始者である。
トルストイ
19世紀ロシアの文学者。人道主義的な作品を多数残している。代表作は『戦争と平和』『アンナ=カレーニア』など。
パリ条約
1856年のクリミア戦争を終結させた講和会議、およびそこで締結された講和条約。オスマン帝国の領土保全が図られ、ロシアの南下政策が阻止された。黒海が中立化した
アレクサンドル2世
クリミア戦争の敗北を受け、農奴解放令など改革を実施してロシアの近代化を図るとともに、露土戦争などで勢力拡張を図った。
ナロードニキ運動
ロシアの青年知識人層(インテリゲンツィア)によるヴ=ナロード(人民のなかへ)を掲げた革命運動。運動には失敗しテロリズムに向かったグループもあったが、後のロシア革命運動の原点となった。
ジェファソン
1801年からは第3代大統領を務め、フランス政府からルイジアナの買収など、合衆国の拡張に努めた
ジャクソン
アメリカ合衆国第7代大統領。西部の農民出身。米西戦争でインディアン討伐などで活躍、1829~37年大統領を務める。西部の農民など支持を背景に民主主義を進展させた
先住民強制移住法
1830年、アメリカのジャクソン大統領の時に制定された、ミシシッピ東岸のインディアンを中西部の保留地に強制移住させる法律。移住中に多くの人が死んで、それらを「涙の道」とした
明白の天明/マニフェスト=デスティニー
19世紀後半のアメリカで領土の西方への発展を天命と考える見方。
ポーク
11代目アメリカ大統領、アメリカ=メキシコ戦争を行ったなど、さまざまな実績がある民主党の政治家
アメリカ=メキシコ戦争
1846~48年、アメリカがメキシコの領土を奪った戦争。アメリカがメキシコのテキサスを併合したことで始まった。アメリカが勝利し、これによってカリフォルニア、ニューメキシコなどを獲得、アメリカ合衆国の領土が太平洋岸に達した。敗れたメキシコにとっては領土の約半分を失う結果となった。
ゴールドラッシュ
1848年のカリフォルニアの近郊発見から始まったアメリカ人口の西方大移動。これによりアメリカの西部が発展し、フロンティアの拡大につながった。1849年に世界中から移民が殺到した
大西洋三角貿易
17~18世紀に展開されたイギリスなどによる大西洋での貿易。アフリカから黒人奴隷をアメリカ新大陸・西インド諸島に運び、そこからヨーロッパにタバコや綿花、砂糖などを運んだ。とくにイギリスは三角貿易で得た富を資本として産業革命を推進する財源とした。
黒人奴隷
アフリカの各地から、アメリカに輸入された奴隷のこと。彼らは南部のプランテーションで酷使された
アメリカ南北の対立
アメリカ南部は農業で発展、北部は工業で発展した。そのため奴隷を必要としているのは南部だけであった。また北部は保護貿易、南部は自由貿易。政治方針も北部は連邦主義、南部は州権。政党は北部は共和、南部は民主と対立が多かった
ミズーリ協定
1820年、アメリカ合衆国の自由州と奴隷州の均衡を図るために定められた協定。ミズーリ州を奴隷州とする代わりに、自由州のメイン州をつくってバランスを取り、事後は北緯36度30分以北には奴隷州をおかないこととした。ただ完全に州を分けることはできず失敗。
カンザス・ネブラスカ法
アメリカ合衆国で、1854年、ミズーリ協定を否定し、準州が州昇格の際に自由州か奴隷州かを住民が選択できるとした。民主党の主張に従い、奴隷制拡大につながる同法に対し、反対派は共和党を結成、南北対立激化の契機の一つとなった。ただ違法投票なども行われ、無理だった
リンカン
第16代アメリカ合衆国大統領(共和党、在任1861~65年)。1861年からの南北戦争で北部を指導、63年に奴隷解放宣言を出した。
アメリカ連合国
1861年2月に結成されたアメリカ南部諸州の連合国家。アメリカ合衆国から分離し、北部とのあいだで南北戦争となる。大統領はジェファソン=デヴィス。首都はモントゴメリからリッチモンドに移った。1865年4月、北軍との戦いに敗れて消滅した。
ジェファソン=デヴィス
1861年、アメリカ南部諸州が結成したアメリカ連合国の大統領。南北戦争で敗れた。
南北戦争
1861年(重要)、アメリカ合衆国が南北に分かれて戦った戦争。主な争点は黒人奴隷制度の存続をめぐってであったが、産業構造の違い、連邦制の性格などをめぐる対立もあった。4年にわたる激戦の結果、北軍が勝利し、南部の分離は実現せず、アメリカは統一国家として存続した
グラント
アメリカ南北戦争の北軍の将軍。第18代大統領(在任1869~77)。在任中、金ぴか時代という金銭万能の風潮が拡がった。
リー
南北戦争にて、南部連合の軍司令官を務め、物量や国力において圧倒的に強大だった合衆国側の北軍を大いに苦しめた。
ホームステッド法
1862年、アメリカ大統領リンカンが出した西部の農民創出法。自営農地法とも言う。21歳以上の男女の合衆国市民に公有地を貸与し、5年以上開拓に従事すれば、160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償で与えるというもの。これによりリンカンの指示と、北軍の優位をもたらした
奴隷解放宣言
1863年1月1日、南北戦争のさなか、アメリカ大統領リンカンが公布し、黒人奴隷の解放を宣言した。前年の9月に予備宣言されていたものをここで実施し、戦争目的を奴隷解放にあることを示し、国際世論の支持をうけ、戦争を北軍有利に転換させた。
ゲティスバーグの戦い
1863年7月の南北戦争での最大の戦闘となった戦い。北軍が勝利し、リンカンの有名な演説が行われた場所としても知られる。
シェアクロッパー制
1863年7月の南北戦争での最大の戦闘となった戦い。リンカンの有名な演説が行われた場所としても知られる。
クー・クラックス・クラン
南北戦争後のアメリカ合衆国南部で白人の至上主義を掲げ、黒人に対する暴力行為を組織的に行った秘密結社。一時衰えたが1920年代に復活して公然と活動し、現在も南部に伏流している。
ジム=クロウ法
黒人と白人の使うものを分けること。アメリカで差別された黒人を意味し、また黒人差別にもとづく黒人分離政策や黒人取締法、選挙権の制限などの制度そのものをジム=クロウ法とも言った。
公民権法
黒人と白人の法律上の差別をなくすもの。36代大統領、ジョンソン。キング牧師が運動を行った
清王朝
1616年に現在の中国を支配していた、王朝。満州人の王朝である
朝貢
中国の王朝に対する周辺諸国の貢物の献上と、それに対する皇帝からの下賜という形態をとる一種の貿易。中国王朝が周辺諸国との冊封体制を結ぶという国際関係の秩序の下で行われた貿易。また広州に貿易場を限定した
マカートニー
イギリスの外交官で、1793年、広州以外の開港などを自由貿易を要求するため清朝に派遣されたが失敗した
アマースト
マカートニー使節団に続き、1816年、イギリスから中国へ自由貿易要求のため、清朝に派遣されたが、再び失敗した
アジア三角貿易
19世紀のイギリスが本国とインド、中国を結ぶ貿易。イギリスが大きな利益を得て第二帝国と言われた繁栄をとげた。清朝はアヘンの蔓延と銀の流出のために急速に衰えた。イギリスから清は銀と茶、清とインドで銀とアヘン、イギリスとインドで絹織物と銀。イギリスは国内重要の拡大から、中国の茶を欲しかったが、中国は銀でしか交渉することができなかったため、この方法を使い銀を繰り返し手に入れ貿易した。
林則徐
欽差大臣として広州でアヘン取り締まりを強化した。またこの結果、貿易を取り締まられたイギリスが怒りアヘン戦争が始まった
アヘン戦争
1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た
南京条約
アヘン戦争の結果、1842年イギリスと清の間で締結された条約。清が香港の割譲と5港の開港などを認め、開国した。関税自主権の喪失
虎門寨追加条約
南京条約の追加条約で、清が片務的な最恵国待遇をイギリスに認めた不平等条約。これにより、領事裁判権も認められた
望厦条約(ぼうかじょうやく)
1844年の清とアメリカの修好通商条約。アメリカにとって有利な不平等条約であった。領事裁判権、関税自主権、開国、優遇国扱いなど
黄埔条約(こうほじょうやく)
1844年、清朝とフランスの間で締結された修好通商条約。フランスに有利な不平等条約であった。
アロー号事件
1856年から60年のイギリス・フランスによる中国に対する侵略戦争。第2次アヘン戦争ともいう。
天津条約
1858年、アロー戦争中に清が英仏露米四国と結んだ条約。清がその批准を拒否ししたため、英仏が北京を攻撃した。
北京条約
アロー戦争の結果、1860年に清が英仏と結んだ条約。天津条約の条項を変更、追加した。賠償金の増額、イギリスへの九竜半島南部割譲、天津の開港、キリスト教布教の全面解禁などがポイント。アヘン貿易の公認、
太平天国の乱
洪秀全が中心となって起こした1851年から1864年にわたる近代中国の大農民反乱。スローガンは「滅満侵漢」であり、南京を都に太平天国という独立国家を樹立したが、郷勇などの漢人勢力、外国軍の介入によって滅ぼされた。
洪秀全
キリスト教の影響を受けた拝上帝会を結成し、1851年、太平天国を建国し清朝に対する反乱を起こした。
洋務運動
清朝末期の19世紀後半に、漢人官僚が進めた西欧化政策。アロー戦争の敗北を機に、朝廷内の漢人官僚が軍備の近代化の必要を意識したことに始まり、次第の近代的な諸産業の育成に向かった
李鴻章(り こうしょう)
漢人官僚として1860~70年代の洋務運動を進めた。日清戦争講和会議での清の全権大使。
曾国藩(そう こくはん)
漢人官僚として1860~70年代の洋務運動を進めた。
中体西用
清朝末期の改革運動である洋務運動の理念。西洋の技術は取り入れるが、思想は中国の伝統を維持するということ。中国を自分の中心だと思っていること
徳川家定
江戸幕府の第13代将軍、彼が将軍の期間にペリーが来航し、開国をおこなった
阿部正弘
江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。
ペリー
1853年(重要)に浦賀に来航した海軍軍人。フィルモアからもらった国書を日本に持ってきて、日本と条約を結んだ
安政の改革
幕末期の外圧危機に対して、阿部正弘が中心に行った改革。朝廷や外様大名に戒告の意見を聞いたが、失敗。またこれにより、朝廷、外様大名の政治介入のきっかけになった
日米和親条約
下田・箱館の2港を開いて、アメリカ船に燃料・食糧を供給すること、領事駐在を認めること、優遇国扱い
フィルモア
第13代目アメリカ大統領。ペリーに国書を持たせ、日本に開国を促した
ハリス
アメリカの初代駐日総領事。通商条約を要求したが、結局彼だけでは解決できなかった
堀田正睦
江戸時代の老中首座。ハリスとの交渉のために、孝明天皇の勅許得ようとしが失敗した
井伊直弼
江戸時代後期から幕末の譜代大名。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した
日本修好通商条約
長崎、兵庫、神奈川、新潟の開港。関税自主権の喪失、領事裁判権を認め、自由貿易が開始された。またアメリカに続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ
尊王攘夷論
幕府への反感により生まれた、天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き、生まれた理論
安政の大獄
大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧
橋本左内
安政の大獄によって殺された日本の武士。
吉田松陰
江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)。安政の大獄により処刑された
桜田門外の変
桜田門外の変は、安政7年3月3日に江戸城桜田門外で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。
安藤信正
井伊直弼の後、老中になった人物。公武合体(朝廷と幕府の合体)を目指し、孝明天皇の嫁、和宮と14代目徳川家茂に嫁がせたが、失敗した
坂下門外の変
安藤信正が和宮と家康家茂を嫁がせたことが、尊王攘夷派の志士に反感を買い、坂下門外で暗殺された事件
島津久光
江戸時代末期の薩摩藩の藩主であり、坂下門外の変の後幕府に改革を進めた
文久の改革
朝廷から勅命をもらい、薩摩藩主の父であった島津久光が主導となって行った改革。人事や制度を改革した
生麦事件
島津久光の一行が、生麦にさしかかったとき、行列を遮ったイギリス人を薩摩藩士が斬り殺した事件
薩英戦争
薩英戦争は、薩摩藩と大英帝国 の間で起こった戦闘である。双方被害を負い、和解した。そして攘夷論を放棄した
西郷隆盛
西郷 隆盛は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人。 薩摩藩の中心である
大久保利通
大久保 利通は、日本の政治家、武士。薩摩藩士
長州藩外国船砲撃事件
長州藩が朝命を受け、攘夷決行期日の文久3(1863)年5月10日、下関の海峡を通る米・仏・蘭船を砲撃し、若干の損害を与えた事件。のちに、その報復として、四国艦隊下関砲撃事件がおこる。
高杉晋作
幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。
奇兵隊
高杉晋作によって、江戸時代末期(幕末)に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。
三条実美
26歳の時、八月十八日の政変で長州藩士と共に京都から追い出された
八月十八日の政変
尊王攘夷派であり、クーデターをたくらむ長州藩・三条実美らの一部公家を、薩摩藩・会津藩・孝明天皇らが阻止した反クーデター
池田屋事件
1864年、尊王攘夷派の長州藩、土佐藩などと幕府の対立のもとで起こった事件。新撰組が池田屋に潜伏していた、長州藩・土佐藩の尊王攘夷派の志士たちを発見し、激戦を繰り広げ、新撰組が勝利した
禁門の変
長州藩の尊王攘夷、急進派が兵を連れて京都御所蛤御門の付近で薩摩藩、会津藩と戦い、結局長州藩が敗北した。これにより長州藩は朝敵となった
第一長州征討
1864年、長州藩を軍事制圧するために、幕府・諸藩が出兵を行なった出来事。結局実際に戦闘は至らず、軍事的圧力で長州藩は屈した
四国艦隊下関砲撃事件
1864年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が、外国船を砲撃した長州藩に報復し、攘夷派に打撃を与えるために下関を砲撃し砲台を占領した事件。長州藩の敗北の後、償金問題が残った。これらの出来事により、
桂小五郎/木戸孝允
長州藩士。四国艦隊下関砲撃事件の後、長州藩の実権を握り、外国勢力を追放するのは難しいと考え、攘夷を諦めて、倒幕運動を進めた。
ロッシュ
フランスの外交官。駐日フランス帝国公使。幕末期の江戸幕府を支援した。
パークス
英国の外交官。幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。討幕の薩長を支持した
アーネスト・サトウ
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、倒幕派の薩長を支持した
岩倉具視
日本の政治家。元々公武合体派ではあったが、時代の変化とともに討幕派閥になった。不平等条約改正のため岩倉使節団で渡米し訪問したが、失敗し偵察し帰国した。
坂本龍馬
坂本 龍馬は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。薩長の問題に仲介し、薩長同盟を結ばせた
中岡慎太郎
日本の幕末の志士。陸援隊隊長。土佐藩士。坂本龍馬と共に、薩長同盟の仲介人となり、討幕へと進んだ
薩長同盟
1866年、薩摩藩と長州藩との間で結ばれた同盟。土佐藩の仲介によって江戸幕府の打倒を目指しました。
第二次長州征討
1866年、徳川幕府が率いる長州藩に対する討伐遠征。全ての戦いで幕府が敗北し、結果として徳川家芝の死で幕府軍は撤退した
討幕の密勅
明治天皇が薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書。これにより江戸幕府は崩壊する
大政奉還
1867年(重要)坂本龍馬の提案により日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したこと
山内豊信
土佐藩の元藩主。徳川慶喜に大政奉還を建白したことで有名
王政復古の大号令
討幕派が発せられた、天皇を中心とする明治政府樹立の宣言です。この発布は、王政復古のクーデターとも言われ、これにより江戸幕府265年の歴史は幕を閉じた
小御所会議
。大政奉還で機先を制せられた岩倉具視,大久保利通ら武力討幕派が徳川家の処分をめぐって山内豊信,松平慶永ら公議政体論者をおさえて徳川慶喜の官位辞退,所領返納を決定した
戊辰戦争
1868年(重要)で旧幕府佐幕派諸藩軍と朝廷側の倒幕軍との内戦
鳥羽・伏見の戦い
戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見、橋本で行われた。
東征軍
戊辰戦争における新政府軍
勝海舟
日本の武士、政治家。日本の近代史最大の内戦戊辰戦争において即時停戦と江戸城無血開城を主張し実現させ日本の平和主義に貢献した。
江戸無血開城
西郷隆盛、勝海舟が会談し、明治新政府軍と旧幕府との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。
奥羽越列藩同盟
戊辰戦争中の1868年5月6日に成立した同盟で、陸奥国・出羽国および越後国の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王 を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権。
会津戦争
戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いである
白虎隊
日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。
榎本武揚
幕末・明治期の武士、海軍軍人、政治家、外交官。戊辰戦争中に函館で抵抗した
五稜郭の戦い
、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。幕府軍は敗北した
征韓論
新幕府で議論された、朝鮮侵略についての理論。廃藩置県後,士族の特権を奪う政策が次々と実施されるや,その不満を征韓によってそらし,同時に内政改革をしようというものであった。西郷隆盛・板垣退助らにより主張されたが、大久保利通,岩倉具視,木戸孝允が否定して実現しなかった。これにより新幕府の二分化が始まった
明治6年の政変
1873年にいわゆる征韓論問題をめぐって政府が分裂した政変。これにより西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣が下野した。
副島種臣
そえじま たねおみ。政治家。佐賀の生まれ。尊王攘夷運動に奔走。。征韓論を主張して下野した
江藤新平
江戸時代後期の武士、明治時代の政治家。征韓論を唱えたが、敗れて辞職し下野した。しかし士族と連れて佐賀の乱を起こした。だが鎮圧されて刑死した。
佐賀の乱
佐賀の乱は、1874年2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。大反乱だったが、政府が素早く対策し、激戦の後鎮圧され江藤新平は殺された
西南戦争
1877年、熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。政府軍に鎮圧され、西郷隆盛は自決した
民撰議院設立建白書
1874年,板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。しかし、大久保利通に拒否された
紀尾井坂の変
1878年。大久保利通が暗殺された事件。犯人は不明だが、独裁を敷いた大久保利通に不満があった士族によるものだと考えられている
伊藤博文
明治時代の日本の政治家。4度に至って日本の内閣総理大臣を行った。大久保利通の暗殺後、彼の意思を受け継ぎ国会慎重派だったが、早期開設派の大隈重信と対立した。一次内閣時には大日本帝国憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。
大隈重信
日本の政治家・教育者。大久保利通の暗殺後、伊藤博文を対立した。外国との不平等条約を解消するため働き、外国人判事の任命を大審院に限るようにした。しかし、国民にとっては納得されるものではなく襲撃され、右足が吹き飛んだ
黒田清隆
日本の陸軍軍人、政治家。新政府を立て直すために、実業家の五代 友厚に格安で官有物を売り払いそれが問題となった。日本の二代目総理大臣
開拓使官有物払下げ事件
1881年、開拓使官有物払下げ事件は、北海道開拓使長官であった黒田清隆が、開拓使の資産であった工場や土地などの官有物を安価、無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。批判を納めるために政府は国会開設の勅論をだし、大隈重信が罷免された
明治十四年の政変
大隈重信が明治政府中枢から追放された事件。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件であり、大隈と大隈系官僚が政府から去ったことにより政府内の構造が大きく変容した
グナイスト
ドイツの法学者・政治家。イギリス憲政史の研究家。憲法改正のためにイギリスに行った伊藤博文に憲法に関する技術を与えた
シュタイン
ドイツの社会学者。。伊藤博文の帝国憲法起草に多大の影響を与えた
ロエスレル
、ドイツの法学者・経済学者。明治の日本でお雇い外国人の一人として活動したドイツ人である。伊藤博文と共に、日本憲法作成に協力した
井上毅
幕末・明治期の日本の武士、官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人
金子堅太郎
日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。
伊東巳代治
明治から昭和の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。
大日本帝国憲法の公布
1889年2月11日(重要)大日本帝国憲法が公布された
山県有朋
日本の政治家。3代目総理大臣。彼の内閣で、1890年:第一回衆議院総選挙、そして第一回議会が開始された
帝国議会
1890年、初めの議会。衆議院と貴族院からなる議会。山県有朋内閣から行われた
貴族院
帝国議会中、皇族・華族や高額納税者など、選挙で選ばれていない議員で構成される議院。
岩倉使節団
1871年、不平等条約の改正 を目的として欧米諸国に派遣された。ただし議会もない当時の日本は相手にされず、条約改正には至らなかった。学校や工場などを視察し、文化を調査した
井上馨
日本の政治家。不平等条約改正のため、鹿鳴館を建設し外交を行ったが、結局改正までには至らなかった
鹿鳴館
井上馨によって考えられ、コンドルが建設した日本と外国の外国の中心になった。しかし、結局改正には至らなかった
ノルマントン号事件
イギリス貨物船ノルマントン号が難破した事件。イギリス船員は全員脱出したが、日本人の乗客は全員水死した。イギリス領事の裁判の結果、船長は無罪になった。しかし政府は世論に押され再び裁判を行ったが、刑罰は禁錮三ヶ月であり、政府は反感を買い井上馨も批判を受けた
来島恒喜
日本の右翼活動家、不平士族、テロリスト。玄洋社元社員。暗殺を計画して1889年10月18日に決行におよび、大隈に爆弾を投げつけて右脚切断の重傷を負わせ、自身はその場で自害した
青木周蔵
明治・大正期の日本の外交官、政治家。不平等条約改正に動き、外国人判事任用を中止させた。またこのタイミングで英露が対立したため、英の対応が軟化した。しかし大津事件が起こり、青木は辞職した
大津事件
1891年、日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライが、滋賀県滋賀郡大津町で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。これにより青木周蔵は辞職することになった
陸奥宗光
日本の幕末の武士。明治期の外交官。1894年、日英通商航海条約絵を結び、法権と税権の一部の回復を達成した
小村寿太郎
日本の外交官、政治家。1911年、日米通商航海条約を調印して関税自主権の回復を実現した。
江華島事件
1875年に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。
日朝修好条規
江華島事件をきっかけに、日本が李氏朝鮮に迫り、1876年に日朝間で結ばれた修好条約。日本優位の不平等条約であり、釜山など三港を開港させた
壬午の軍乱
1882年、朝鮮王朝の閔妃政権とそれを支えた日本に対する兵士の反乱。大院君政権が一時復活したが、清が介入して閔妃政権を復活させた。
清仏戦争
1884年、ベトナム支配権をめぐる清とフランスの戦争。フランス軍が苦戦したが、1885年6月に天津条約で講和し、清朝がベトナム宗主権を放棄した
金玉均
朝鮮王朝の開化派の指導者。日本にならって改革を進めようと1884年、甲申政変のクーデタを実行したが、失敗し日本に亡命。日清戦争直前に閔妃政権によって暗殺された。
甲申事変
1884年、親清派勢力、閔妃の一掃を図り、金玉均は日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。
天津条約
1858年、アロー戦争中に清が英仏露米四国と結んだ条約。日本は伊藤博文、清王朝は李鴻章が交渉にあたった。日清の朝鮮からの撤兵、出兵の際は互いに予告するということを結んだ
甲午農民戦争
1894年(重要)東学の指導者が起こした農民反乱。朝鮮半島南西部を中心に広がり、それを口実に日清両軍が出兵し日清戦争となった。
日清戦争
1894~95年、朝鮮における甲午農民戦争を契機に起こった日本と清の戦争。日本が勝利し、大陸への最初の足がかりをつくった。
黄海海戦
1894年に日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋艦隊の間で戦われた海戦。合戦4時間余で日本連合艦隊は清国北洋艦隊に大損害を与え,黄海の制海権を握り,朝鮮への陸軍の輸送を安全にした
下関条約
1895年、日清戦争の講和条約。清朝は朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲、賠償金の支払いなどを認めた。日本では伊藤博文と陸奥宗光、清王朝は李鴻章が交渉にあたった
三国干渉
1895年4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日清戦争の日本の勝利とそれに伴う下関条約により日本に割譲された遼東半島を清国に返還することを要求する内容
旅順・大連
遼東半島の一部の地域の名前。三国干渉によって日本が返した後、ロシアが清王朝からこれらを借りた
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
日清戦争で得た領土を、ロシアなどの三国干渉で返還した時、「復讐の日まで我慢しよう」という意味でこの言葉がスローガンとして叫ばれた
光緒帝
清朝末期、第11代の皇帝。幼少で即位し、西太后が摂政となる。親政開始に伴い、1898年に戊戌の変法を試みたが西太后らに幽閉されてしまった。
康有為(こうゆうい)
日清戦争の敗北、列強による中国分割という危機に直面し、1898年光緒帝に日本の明治維新を模範とした改革を提言、採用されて戊戌の変法を指導した。しかし戊戌の政変で西太后ら保守派によって排除され、日本に亡命。
梁啓超(りょう けいちょう)
清朝末期に戊戌の変法を指導し、弾圧されて日本、アメリカに亡命。
戊戌の変法
1898年、帝国主義の侵略という危機の中で始まった清朝の近代化をめざした改革。光緒帝のもとで康有為、梁啓超など改革派によって進められたが、西太后などの保守派にのクーデター(戊戌の政変)によって挫折させられた。
西太后
光緒帝の二代にわたり、皇太后という立場ながら清王朝で偉大な権力を持っていた。西太后は保守派官僚を動かし、改革派を退けた。その支配は1861年から亡くなる1908年までの約50年におよんだが、特に1898年の戊戌政変では康有為ら改革派を弾圧したこと、1900年の義和団事件では諸外国に宣戦したが敗れ、大きな譲歩を余儀なくされたことなどの重大な局面で責任を負った。
戊戌の政変
1898年、戊戌の変法を進めていた康有為ら改革派を保守派の西太后が弾圧した事件。
義和団事件
1900年、中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。スローガンは「扶清滅洋」清朝(西太后)は当初鎮圧を図ったが、北京を占領されるにおよんで支持に転じ、列強に宣戦布告した。しかし英米仏露日など8ヵ国連合軍が北京を奪回し、列強の帝国主義的中国分割が進んだ。
八か国共同出兵
義和団事件により、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア=ハンガリー・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に向かい、外交官や在留自国民を保護しようと結成された連合軍
辛丑和約
1901年、義和団事件後に清朝政府が列強と締結した取り決め。賠償金の支払い、外国軍隊の北京駐留などが認められた
日露協商論
日本が朝鮮・中国への侵略を図るうえで,対立が深刻化した対ロシア策として伊藤博文(ひろぶみ)等が主張した意見。 日本の朝鮮における優越権とロシアの満州経営の自由を相互に認めあう満韓交換の考え。伊藤、井上などに指示された
日英同盟論
日本が対ロシア政策として、同じく対立化が進むイギリスと同盟を組みロシアと決戦すると言うもの。桂太郎、山県有明、小村らに指示された
桂太郎
日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣。日露の対立により、日英同盟論を支持し伊藤博文と対立した
日英同盟
1902年、イギリスと日本が締結した二国間同盟。中国・韓国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的としした同盟
日露戦争
日露戦争は、1904年2月(重要)から1905年9月にかけて大日本帝国と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。主に満州、遼東半島で争いが行われ、また日本海近郊でも艦隊戦が行われた
幸徳秋水
幸徳 秋水は、日本のジャーナリスト、思想家、共産主義者、社会主義者、無政府主義者。日露戦争に反対
内村鑑三
内村 鑑三は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。日露戦争に反対
与謝野晶子
与謝野 晶子は、日本の歌人、作家、思想家。日露戦争に反対
乃木希典
陸軍大将。旅順攻囲戦で指揮をとり、ロシアの要塞を日本軍が制圧し陥落させた。
大山巌
日本の政治家。陸軍大臣、陸軍参謀総長。奉天会戦において指揮を取り、日本軍が数的に不利であったが日本軍を勝利に導いた
旅順攻囲戦
日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。
奉天会戦
日露戦争における最後の大規模な会戦である。 満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。
東郷平八郎
日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることになった
日本海海戦
日露戦争中、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊との間で日本海で行われた海戦である。
血の日曜日事件
1905年1月、ロシアのペテルブルクで労働者の請願に対して軍隊が発砲、多数が殺傷された事件。第一次ロシア革命の勃発となった。
第1次ロシア革命
1905年、ロシア帝国ロマノフ朝の専制国家打倒を掲げた民衆蜂起による革命。立憲政体を樹立したが、まもなく専制政治に戻った。
十月宣言
第1次ロシア革命中の1905年、ニコライ2世が国会開設などを認めた。
ポーツマス条約
日露戦争に関する条約。全権は日本が小村寿太郎、露はウィッテ、米はセオドア=ルーズヴェルト。日本は韓国、旅順、大連に関する権利を獲得した。また北緯50°以南の樺太を獲得した。しかし、賠償金は受け取れなかった
セオドア・ルーズベルト
セオドア ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の政治家、軍人で第26代大統領。ポーツマス条約の仲介人
日比谷焼き討ち事件
日比谷焼打事件は、1905年9月5日、東京市麹町区の日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本の暴動事件
日露協約
日露戦争後の1907~16年、4次にわたる日本とロシアの東アジアでの帝国主義的勢力分割協定。主としてアメリカの満州進出に対抗する秘密軍事同盟であった。
英露協商
1907年成立した、イギリスとロシアの帝国主義的支配地域分割協定。イラン・アフガニスタン・チベットにおける両国の勢力圏を分割し、露仏同盟、英仏協商、とともに三国協商を構成する。
東遊運動
ベトナム民族運動の指導者ファン=ボイ=チャウが提唱し、1905~09年頃まで盛んに行われた、ベトナム青年の日本への留学を進めた運動。日本政府がベトナム人国外追放に転じたため、失敗した。
ファン=ボイ=チャウ
20世紀初頭のベトナム民族運動指導者。フランスからの独立をめざして戦い、日本の近代化に学ぶことを提唱して東遊(ドンズー)運動を組織した。日本からの支援は得られず、蜂起は度々鎮圧されたが、生涯を独立運動に捧げた。
日韓協約
20世紀初頭、日露戦争の戦争中から戦後にかけて、3次にわたり日本が韓国の保護化を進めた協約。1905年の第2次協約で実質的に保護国化し、1910年の韓国併合へと向かった
ハーグ密使事件
1907年、韓国皇帝がハーグ万国平和会議に密使を派遣し、日本による保護国化無効を訴えた。日本は高宗の日韓協約違反を責めて譲位させる。譲位反対の暴動が起きる中、第3次日韓協約(軍隊の解散)締結を強要した。
義兵闘争
1905~10年にかけて展開された、日本の朝鮮保護国化に対する兵士・民衆による戦い。特に1907年の第3次日韓協約により軍隊が解散させられたことに抗議して始まった義兵闘争は1909年に最も激しくなった。
安重根
義兵闘争に加わって日本軍と戦った後、1909年、満州のハルビンで前韓国統監伊藤博文を暗殺した韓国の独立運動家。翌年死刑となったが、韓国の抗日運動の英雄とされている。
全琫準
朝鮮国後期の人物。東学の主要人物の一人で、甲午農民戦争の契機をつくった。通称は「緑豆将軍」。
韓国併合条約
1910年、韓国併合に関する条約によって日本が併合し領土化した。その後、朝鮮総督府を通じて1945年までの35年間、植民地として統治した。
寺内正毅
明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。朝鮮総督府の初代総統である。
光緒新政
義和団事変後、20世紀初頭に西太后らによって行われた清朝最末期の上からの改革。一定の近代化を図り清朝の延命を図ったが成果を上げることなく1911年の辛亥革命で倒れた。憲法大綱、国会解説の公約を発表した。また科挙の廃止もおこなった
孫文
中華民国の政治家・革命家・思想家・政治運動家・医師。東京に滞在していた時期もあった。また初代臨時大総統であった
中国同盟会
孫文が東京で設立した日本にいる清王朝を変えていきたい中国人による集団
武昌蜂起
1911年、辛亥革命の口火を切った新軍を中心とする蜂起。
辛亥革命
1911年、孫文らが中心となって清朝を倒し、1912年1月に孫文を臨時大総統とする中華民国を樹立した革命。
袁世凱
李鴻章の後継者として淮軍を率い、清朝に仕えた軍人。辛亥革命では皇帝を退位させ、孫文に代わって臨時大総統となり、独裁権を握る。最後は皇帝の地位を狙ったが失敗した。
宣統帝
清朝最後の皇帝。
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