プリン 2025年01月12日 カード121 いいね0

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単語カード

  • 地大国富民衆兵強此盛满之国也
    領地が広く国が富んでおり、人民が多く軍隊が強い。これは国力が盛んで満ち足りた国である。
  • 治国常富而乱国常貧
    治った国は常に富んでおり、そして乱れた国はいつも貧しい。
  • 人惰而侈則貧力而倹則富
    人は怠けて贅沢であると貧しくなり、努力して倹約すると豊かになる。
  • 風雨時五穀実草木美多六畜蕃息国富兵彊民材而令行
    風雨がほど良いときに吹いたり降ったりし、五穀が実り、草木が美しくて多く、六音がたくさん生まれて増え、国が富み軍隊が強く、人民は才能があり君主の命令が守られ実行される。
  • 我文王之子武王之弟成王之叔父
    わたしは文王の子であり、武王の弟であり、成王の叔父である。
  • 太子天下本本一摇天下振動
    皇太子は天下の根本である。根本が一たび動揺するならば、天下が振るい動くであ ろう。
  • 天下者高祖天下父子相伝此漢之約也
    天下というのは高祖の天下であって、父から子へとつぎつぎに伝えることになっているのは、これが漢王朝での約束である。
  • 是時漢兵盛食多項王兵罷食絕
    このとき、漢は軍隊が元気盛んで食糧が多く、項王の方は軍隊が疲れ食糧がなくなっていた。
  • 縁木求魚
    木によじ登って魚を探し求める。
  • 積徳潔行
    立派な道徳を身にたくわえ、行いを潔白にする。
  • 君国子民
    君主となって国を治め、人民をわが子のように愛する。
  • 平定海内
    中国全体を平定する。
  • 吾騎此馬五歲•••嘗一日行千里
    わたしはこの馬に乗ることが五年間であって、・・・この馬は一日に千里も走ったことがあった。
  • 漢王之敗彭城諸侯皆復与楚而背漢
    漢王が製城で負けたときには、諸はみなまたに味方して漢に背いた
  • 楚兵不利淮陰侯復乗之大敗垓下
    との軍隊は形勢が不利になったので、准陰侯韓信はこんどは軍の不利につけこんで、垓下(地名)で大いに造軍を打ち破った。
  • 発怒削地
    領地を削り取られたことに対して怒りを発する。
  • 高祖購求布千金
    高祖は、捕らえて来た者に千金を与えるとの懸賞金づきで季布を探し求めた。
  • 景公問政孔子
    斉の景公は政治の心得を孔子に尋ねた。
  • 斉景公問政於孔子
    斉の景公は政治の心得を孔子に尋ねた。
  • 孔子学鼓琴師襄子
    孔子は琴の演奏を音楽師の襄子に学んだ。
  • 孔子学鼓琴於師裏子
    孔子は琴の演奏を音楽師の襄子に学んだ。
  • 漢王授我上将軍印予我数万衆
    漢王はわたしに上将軍の印を授け、わたしに数万人の軍隊を与えた。
  • 示天下不復用兵
    武力をまたと行使しないことを天下に示す。
  • 漢果数挑楚軍戦
    漢軍は案の定しばしば楚軍に戦闘をしかけた。
  • 仰以観於天文俯以察於地理
    仰いで天上の模様を観察し、俯して地上の模様を観察する。
  • 故知天者仰観天文知地者俯察地理
    仰いで天上の模様を観察し、俯して地上の模様を観察する。
  • 蔡沢日•••君之設智能為主安危修政治乱彊兵批患折難広地殖穀富国足家彊主尊社稷顕宗廟天下莫敢欺犯其主主之威蓋震海内功彰万里之外声名光輝伝于千世孰与商君吳起大夫種 応侯日不若
    蔡沢が(応候に対して)言った、「・・あなたが知恵や才能を発揮し、君主のために、国の危うくなったのを安定させ政治を警備し、乱を平定し軍隊を強くし、心配事をなくし困難を制圧し、領土を広め穀物を増産し、国を富ませ人民を豊かにし君主を強くし、国の守護神や君主の祖先の神々を人々からあがめ尊ばれるようにし、天下に自分の君主をあざむき犯すがごときことをする者がなく、君主の威力が天下全体を圧し振るいわたり、功績が万里の遠方にまで知れわたり、声名がかがやいて、千代の後までも伝わるということは、あなたは商君・具起・大夫種と比べてどちらがすぐれているでしょうか」。応侯「わたしは及ばない」。
  • 吳起為楚悼王立法卑減大臣之威重罷無能廢無用損不急之官塞私門之請一楚国之俗禁游客 之民精耕戦之士南収楊越北併陳蔡破横散従使馳説之士無所開其口禁朋党以励百姓定楚国之 政兵震天下威服諸侯功已成矣而卒枝解
    呉起は、楚の悼王のために制度を設け、重臣の権勢を弱め、無能者を免職にし、無用の事業を廃止し、さし迫った必要のない官職を減らし、権力者の裏口運動をやめさせ、楚国の風俗を統一し、住所不定の浮浪者を禁止し、耕戦の兵士を精鋭ならしめ、 南の方では楊越の地を手に入れ、北の方では陳・祭二国を併呑し、連横・合従の同盟を解体させ、弁舌家にはだれに対してもその口を開いて説くことができないようにさせ、派閥を禁止して一般の人々を励まし、楚国の政治を安定させ、軍備は天下を振るわせ、威力は諸侯を服従させた。このように功業はすでに成就したけれども、呉起は、結局、手足を切り体をばらばらにする刑罰を受けた。
  • 田单乃収城中得千餘牛 為絲繪衣 画以五彩竜文 束兵刃於其角 而灌脂束葦於尾 焼其端 鑿城数十穴 夜縱牛 壮士五千人随其後 牛尾熱 怒而奔燕軍 燕軍夜大驚 牛尾炬火 光明炫燿 燕軍視之皆竜文 所触尽死傷 五千人因銜枚擊之 而城中鼓操従之 老弱皆擊銅器為声 声動天地 燕軍大駭敗走
    田単はそこで城中で取り集めて千余頭の牛を手に入れ、赤色の得の着物を体り、五色の竜の模様を描き、牛の角に武器の刃物をくくりつけ、油を注いでその葦を牛のしっぽにしばりつけ、その葦の端に火を付け、城壁に数十の穴をあけ、夜中にそこから牛を追い出し、壮士五千人が牛の後ろにつづいた。牛はしっぽが熱くなり、怒って燕軍に向かって突進した。燕軍は夜中のことで大いに驚いた。牛のしっぽのたいまつは、明るく光りかがやいた。燕軍がそれをよく見ると、すべて竜の模様であって、牛が触れた者は全部死んだり傷ついたりした。五千人はこの機会に枕を口にくわえて声を出さないで敵を攻撃した。そして城中からは太鼓を鳴らし大声をあげてそのあとから付いて出、老いた者や幼い者はみな銅の器具を鳴らして音を立て、その音は天地を震動させた。燕軍は大いに驚いて、負けて逃げた。
  • 爾為爾我為我
    お前はお前である、わたしはわたしである。
  • 公子姉為趙恵文王弟平原君夫人
    公子の姉は趙国の恵文王の弟の平原君の夫人である。
  • 桀溺謂子路曰子為誰日為仲由
    桀溺が子路に話をして言った、「あなたは誰であるか」と。子路が言った、「仲由で す」と。
  • 善事父母為孝
    父母によく仕えることが孝行である。
  • 幼而無父曰孤
    幼くして父のいない者を『孤』という。
  • 非其位而居之曰貪位非其名而有之日貪名
    自分の就くべき地位でないのにその地位に就いているのは、地位をむさぼるといい、自分の受けるべき名声でないのにその名声を受けているのは、名声をむさぼるという。
  • 尊呂不韋為相国号称仲父
    呂不韋を尊んで総理大臣とし、通称をつけて仲父といった。
  • 邦君之妻君称之曰夫人
    諸侯(日本の大名に当たる)の妻は、殿様がその人のことをいうときは夫人という
  • 楚人謂乳穀謂虎於菟
    国の人は〔方言で〕噛育することを殺といい、虎のことを於菟(おと)という。
  • 然匈奴以李牧為怯雖趙辺兵亦以為我将怯
    しかしながら匈奴は李牧を臆病だと思った。趙国の国境守備兵でさえも自分らの将軍の李牧は臆病であると思った。
  • 武臣乃聴之立為趙王以陳餘為大将軍張耳為右永相部騒為左丞相
    武度はそこで張耳や陳余の言うことを聞き入れ、位に即いて趙王となり、東余を大 将軍とし、張耳を右丞相とし、部騒を左永相にした。
  • 今衆人咸称朝聖皆曰公明
    いま多くの人はみな天子様のことを聖だといい、みな殿様のことを明だといっています。
  • 人皆有兄弟我独亡
    人はみな兄弟があるが、わたしひとりだけは兄弟がいない。
  • 人無遠慮必有近憂
    人に遠いさきざきまでの思慮がないときは、間もなく起こってくる心配事が必ずある。
  • 智者千慮必有一失愚者千慮必有一得
    知恵のある者も千度もたびたび思慮しているうちには一度ぐらいのしくじりが必ずあり、愚かな者も千度もたびたび思慮しているうちには一度ぐらいうまくゆくことが必ずある。
  • 我有積怨深怒於斉
    わたしは斉国に対して積もる怨みと深い怒りを抱いている。
  • 吾寡兄弟
    わたしは兄弟が少ない。
  • 多積聚
    たくわえが多い。
  • 人民衆積畜多
    人民がおおぜいで、たくわえが多い。
  • 善人少而悪人多
    善人は少なく、悪人は多い。
  • 用力少而功多
    労力を使うことが少なくて効果が多い。
  • 我兄弟多
    わたしは兄弟が多い。
  • 儒者文多質少
    儒者は飾り気が多くて質素さが少ない。
  • 子曰苗而不秀者有矣夫秀而不実者有矣夫
    穀物の芽が出て苗になるけれども花の咲かないものはあるなあ。花は咲くけれども実らないものはあるなあ。
  • 其家不可教而能教人者無之
    自分の家族をば教えることができないで他人を教えることのできる者はいない。
  • 今以誣能之臣事私国之君而能済功名者古今無之
    いま能力がないのにあるようにいつわる家来でありながら、国を私物視する君主に仕え、しかも功名を成しとげることのできる者は、昔も今もいない。
  • 是故盗賊衆而治者夫寡衆盗賊而寡治者以此求治譬猶使人三睘而母負己也
    こういうわけで、盗賊が多くて治まっている者は少ない。いったい、盗賊が多くて治まっている者が少ないのに、こんな状態で治まった世の中を求めるのは、たとえば人に三回くるくる回って自分の方に背を向けないようにさせるようなものである。
  • 少年易老学難成
    若者はすぐに年をとるが、学問はなかなか身につかない。
  • 高者難攀卑者易陵
    高いものは登るのが難しく、低いものは踏み越えやすい。
  • 為君難為臣不易
    君主であることは難しく、臣下でいることも容易ではない。
  • 破山中賊易破心中賊難
    山中の賊を討つことはたやすいが、心の中の賊を打ち破ることは難しい。
  • 千里而襲人希有得利者
    千里も遠くまで遠征して敵を襲撃すると、〔疲れ切っているから〕勝利を得る者はめったにいない。
  • 伯夷叔斉不念旧悪怨是用希
    伯夷・叔斉は、古い怨みごとをいつまでも覚えていなかった。人を怨むことがだから少なかった。
  • 今高后崩而帝春秋富未能治天下
    いま高后がおかくれになったけれども、皇帝はお年が若くて、まだ天下を治めることができない。
  • 高帝新弃群臣帝富於春秋
    高帝(=高祖)は群臣をあとに残してあの世へ先立たれたばかりで、天子(恵帝) はお年が若い
  • 家富良馬
    その家には良馬がたくさんいた。
  • 学渉群書文藻富贍
    学間は多くの書物に行きわたっており、文学的才能が豊かである。
  • 農不出則乏其食
    農家が生産しなかったならば、人々は自分らの食べ物に乏する
  • 匈奴遮狭绝道陵食乏而救兵不到
    匈奴は狭い所をさえぎって道を通れないようにした。李陵は食糧が乏し、しかも救いの軍隊は到着しなかった。
  • 馬融字季長扶風茂陵人也・・・為人美辞貌有俊材
    馬融は字は季長で、扶風の茂陵の人である。…その人がらは言葉遣いも容貌も美しくて、すぐれた才能をそなえていた。
  • 孫策為人美姿顔好笑語性闊達聴受善於用人
    孫策はその人がらは、姿も顔付きも美しく、いつもよくにこにこしながら話すのであった。生まれつき気が大きくて人の言うことをよく聞き入れ、人を使うことがじょうずであった。
  • 風儀秀整美於談論
    (温橋は)姿や態度がすぐれており、談論が立派であった。
  • 暎弟曄字通明美姿容善談吐
    暎の弟の曄は、字は通明で、容姿が美しく、弁論がじょうずであった。
  • 公孫瓚字伯珪•••有姿儀大音声
    公孫瓚は、字は伯珪で、・・立派な姿や態度をそなえており、声が大きかった。
  • 羽聞馬超来降 旧非故人 羽書与諸葛亮 問超人才可誰比類 亮知羽護前 乃答之日 孟起兼資文 武雄烈過人 一世之傑 黥彭之徒也 当与益徳並壓争先 猶未及髯之絕倫逸群也 羽美鬚髯 故亮謂之髯
    関羽は馬超がこちらへ降伏して来たと聞いた。馬超は関にとっては従来知り合いではなかった。関羽は手紙を諸葛亮に与えて、馬超の人物才能がだれになぞらえることができるかということを尋ねた。諸葛亮は関が自分の方が劣っていると言われたく思っていないことを知り、そこで彼に返事をして「孟起(=馬超のあざな)は文武の才を兼ねそなえており、勇ましさは一般の人々以上であり、一代の英雄であり、昔 の英雄の布や勤越らと同類の人物である。当然、益徳(=張飛のあざな)とくつわを並べて馬を馳せ先庫を争うはずの人物であるが、それでもひげさんのずば抜けてすぐれているのには及びかねるのだ」と言った。関羽はあごひげ・ほおひげがりっぱであった。それで諸葛亮が彼のことをひげさんと言ったのである。
  • 盗賊益多
    盗賊がますます多くなった。
  • 積善之家必有余慶
    善いことをたくさんおこなった家には、〔自分だけでなく]あり余って子孫にまでも及ぶ幸せがある。
  • 回年二十九髪尽白蚤死
    顔回は二十九歳のときに頭髪が全部白かった。わか死にした。
  • 豕人立而啼
    ぶたが人のように立って鳴き叫んだ。
  • 庶民子来
    多くの人民が子が親のもとに集まるように集まって来る。
  • 孝惠帝時呂太后用事欲王諸呂畏大臣有口者陸生自度不能争之迺病免家居
    孝恵帝のときに、呂太后が権力をにぎり、呂氏一族の人々を王にしようと思ったが、大臣で口やかましい者をけむたがっていた。陸買はこの事に対して言い争ってもだめだと自らおしはかり、そこで病気だという理由で辞職し隠居生活をしていた。
  • 天下溺援之以道嫂溺援之以手子欲手援天下乎
    天下が悪い状態に陥っているときは、聖人の道で天下を引き上げて救う。兄嫁が水におぼれたときには手でこれを引き上げて救う。あなたは手で天下を引き上げて救おうと思っているのか。
  • 范中行氏皆衆人遇我我故衆人報之至於智伯国士遇我我故国士報之
    范氏・中行氏はいずれも一般人なみにわたしを待遇した。わたしはだから一般人なみに彼らに返礼した。智伯ということになると、国家的人物としてわたしを待遇した。わたしはだから国家的人物として彼に返礼した。
  • 及秦軍降諸侯諸侯吏卒乗勝多奴虜使之
    秦軍が諸侯軍に降伏したときになって、諸侯軍の役人や兵卒らは勝った勢いにつけ込んで、多くは彼らを奴隷扱いでこき使った。
  • 食而弗愛豕交之也愛而不敬獣畜之也
    物を食べさせるけれども愛さないのは、ぶた扱いをしてその人と交際しているのである。愛するけれども敬わないのは、けだもの扱いをしてその人を養っているのである。
  • 夫以秦王之威相如廷叱之辱其群臣
    いったい、秦王のような威勢のある人でさえも、わたくし相如は彼を朝廷でどなりつけ、秦王の群臣に恥をかかせてやった。
  • 呉中賢士大夫皆出項梁下
    呉中のえらい役人がたはみな項梁にへりくだった。
  • 古公亶父復修后稷公劉之業積徳行義国人皆戴之
    古公亶父は后稷や公劉のしとげた事業を立派に復活させ、すぐれた人格をますます身に備え、人々のためになることをおこなったので、国民はみな彼を推しいただいた。
  • 斯長男由為三川守諸男皆尚秦公主女悉嫁秦諸公子
    李斯の長男の由は三川の郡守となり、息子らはみな秦の皇女と結婚し、娘はすべて 秦の諸皇子に嫁した。
  • 襄城堅守不下巳抜皆阬之
    襄城の人は堅く守って降伏しなかったので、すでに攻め落としたときには裏城の人をみな穴埋めにした。
  • 項王聞漢王皆幷関中且東斉趙叛之大怒乃以故令鄭昌為韓王以距漢
    直玉は漢王が関中を全部すでに手中に収めてしまい、これから東に向かおうとしており、斉と趙の二国が自分に背いたということを聞き、大いに怒り、そこで前の具県 の県令の鄭昌を韓王に封じ、そして漢を防がせた。
  • 項王至漢軍畏楚尽走険阻
    項王がやって来た。漢軍は項王の率いる麺軍を恐れ、みな険阻な場所に逃げて行った。
  • 広之将兵乏絕之処見水士卒不尽飲広不近水士卒不尽食広不嘗食
    李広が軍隊を率いている場合、水や食糧が欠乏した場所では、水を発見すると、兵土が一人残らず飲み終わらなければ、李広は水に近づかず、兵士が一人残らず食べ終わらなければ、李広は食べたことはなかった。
  • 豳人举国扶老携弱尽復帰古公於岐下
    豳国の人は国じゅら全部、老人を抱きかかえ幼い者の手を引き、岐山のふもとに来て一人残らずもとどおり古公に付き従った
  • 田单乃令城中人食必祭其先祖於庭飛鳥悉翔舞城中下食
    田単はそこで城中の人に言いつけて、食事をするときは必ず庭で食物の一部分を供えてそれぞれの先祖を祭らせた。飛鳥は一羽残らず城中の空を旋回して飛び、下りて来て食べた。
  • 陳餘悉発三県兵与斉幷力擊常山大破之
    陳余は三県の兵を一人残らず徴発し、斉軍と力を合わせ、常山を攻撃して大いにこれを打ち破った。
  • 秦必尽誅吾父母妻子
    秦はわれわれの父母妻子を一人残らず処刑するにちがいない。
  • 外黄不下数日已降項王怒悉令男子年十五已上詣城東欲阬之外黄令含人年十三往說項王日彭越彊劫外黄外黄恐故且降待大王大王至又皆阬之百姓豈有婦心從此以東梁地十餘城皆恐莫肯下矣項王然其言乃赦外黄当阬者
    外黄県は数日間降伏しなかった。すでに降伏したあとで、項王は怒り、男子の十五歳以上の者全部に命じて城の東に来させ、これらの者を穴埋めにしようとした。外黄の県令の家来の子で十三歳の者が、出かけて行って項王を説得しようとして「〔あなたの敵の〕彰越が外黄を無理やりにおどしました。外黄は恐れましたので、だから一時的に彰越に降伏して大王様が救いに来て下さるのを待っていました。大王様がおいでになって、さらにまた一人残らず外黄の者を穴埋めになさるならば、人民たちはどうして大王様に心を寄せることがありましょうか。ここから以東の梁の地の十余城はみな恐れ、降伏を承知するものはありますまい」と言った。項王はこの少年のことばをなるほどと思い、そこで外黄の穴埋めになるはずの者をゆるした。
  • (長桑君)乃悉取其禁方書尽与扁鵲•••(公乘陽慶)使意尽去其故方更悉以禁方予之
    長桑君はそこで自分のもっていた秘密の医術の書物を全部取り出し、全部扁鵲に与 えた。:公乗陽慶は淳于意にいいつけて彼の従来の医術を全部捨てさせ、改めて自分の秘密の医術を全部淳于意に与えた。
  • 右師不悦日諸君子皆与驩言孟子独不与驩言是簡驩也
    右師〔の官であった王驩〕は機嫌をそこねて、「みなさんがたはみな驩(わたし)と話をなさったが、孟子だけは驩と話をしなかった。これは驩をないがしろにしたのである」と言った。
  • 秦既得意燒天下詩書諸侯史記尤甚為其有所刺譏也詩書所以復見者多藏人家而史記独蔵周室以故滅惜哉惜哉
    秦がすでに天下を取ってわがもの顔に振る舞えるようになったとき、天下の詩経・書経を焼いたが、焼かれたもののうちで諸侯の記録が特にはなはだしかった。それらの記録に秦をそしっている点があるためである。詩経や書経がふたたび世に現れたわけは、多くが民家にしまわれて散在していたからであるが、諸侯の記録だけは周の皇室の庫にしまわれていた、だから清減してしまった。惜しいことだなあ、惜しいことだなあ。
  • 鄭当時者字陳人也其先鄭君嘗為項籍将籍死已而属漢高祖令諸故項籍臣名籍鄭君独不奉 詔詔尽拝名籍者為大夫而逐鄭君
    鄭当時という者は、あざなは荘で、陳国の人である。彼の祖先の興君は項籍につかえる大将であったことがあった。籍が死んだ。そういうことのあったのちに漢に従っ た。高祖はもろもろの元の項籍の臣下に籍と名をいわせたが、鄭君だけは認を守らな
  • (高祖)問日若何有対日奮独有母不幸失明
    高祖が尋ねて言った、「お前はどんな身内があるか」。石がお答えして言った、「奮(わたし)はただ母だけがあります。不幸に目が見えません」。
  • 漢王之敗彭城而西行使人求家室家室亦亡不相得敗後乃独得孝恵
    選王が影城で負けて西の方に逃走したとき、家来に命じて家族を探し求めさせたが、 家族もまた逃亡していて、これを見付けることができなかった。敗戦後になってやっ とただ孝恵帝だけを見付けた。
  • 当是時臣唯独知韓信非知陛下也
    この時に当たって、わたくしはただ韓備だけを知っていました。陛下を知っていたわけではないのであります。
  • 春漢王部五諸侯兵凡五十六万人東伐楚項羽聞之即令諸将擊斉而自以精兵三万人南從魯出胡陵
    春に漢王は五諸侯の軍隊総計五十六万人を手分けして、東に向かって魅軍を攻撃した。〔項羽はこのときみずから斉を攻撃していたが〕項羽はこのことを聞き、ただちに諸将に命じて斉を攻撃させ、そして自分自身で精兵三万人を率いて南に向かって魯から胡陵へ出て行った。
  • 許子冠乎曰冠曰奚冠曰冠素曰自織之与日否以粟易之
    玉子「許子は冠を着けているか」。陳相「冠を着けている」。孟子「何の冠を着けているか」。陳相「白の冠を着けている」。孟子「自分でそれを織ったのか」。陳相 「いや、穀物をそれと交換したのだ」。
  • 燕軍尽掘壟墓燒死人即墨人從城上望見皆涕泣共欲出戰怒自十倍
    燕国の軍隊は一つ残らず墓を掘り、埋葬してある死体を焼いた。即墨の人は城の上からこの様子をはるかにながめ、みな涙を流して泣き、城を出て戦おうとともどもに思い、怒りが自然と十倍になった。
  • 読書百徧而義自見
    書物を百回読むと意味が自然にわかってくる。
  • 非人自是
    人を間違いとし自分を正しいとする。
  • 分財利自多与
    品物や利益を分配するときに自分が多く取った
  • 将両騎自随
    二人の騎馬武者を連れて自分の供として従えた。
  • 孫叔敖者楚之処士也虞丘相進之於楚荘王以自代也
    孫叔敖という人は楚国の浪人であった。虞丘相がこの人を楚の王に推薦して自分の代わりにした(自分に代えた)のである
  • 今釈弗撃此所謂養虎自遺患也
    いまもし捨てておいて撃たなかったら、これはいわゆる虎を養って自分に災いの種を残すというものである。
  • 凡闘者必自以為是而以人為非也
    喧嘩をする者はだれでも、必ず自分を正しいとして、人を間違いとするのである。
  • 人君無愚智賢不肖莫不欲求忠以自為挙賢以自佐
    君主は知者愚者、すぐれた者劣った者の区別なしにだれでも、忠臣を求めて自分に役立て、賢者を登用して自分の手助けにすることを望まない者はいない。
  • 張儀於是之趙上謁求見蘇秦蘇秦乃誡門下人不為通又使不得去者数曰已而見之坐之堂下賜 僕妾之食因而数讓之曰以子之材能乃自令困辱至此吾寧不能言而富貴子子不足也謝去之
    張儀はそこで趙国に行き、名刺を差し上げて蘇茶に面会したいと願い出た。秦はそこで家来によく言い合めて張儀のために取り次ぎしないようにさせ、さらにまた張 儀に帰るわけにもいかないようにさせることが数日間であった。そうしておいたあとで面会すると、張儀を表座敷の下の庭にすわらせ、召使いの食べるような粗末な食べ物を授け、そのようにしておいて張儀を責めて、「君のような立派な才能がありながら、しかもこのように自分で自分自身を恥ずかしい状態に陥れている。わしは口添えして君を富貴にしてやることができないわけではないが、君は世話してやるだけの値打ちがないのだ」と言い、ことわって彼を帰らせた。
  • 皓性不好人視己群臣待見皆莫敢凱說皓日夫君臣無不相識之道若卒有不虞不知所赴皓聴凱自視
    孫皓は生まれつきとして人が自分の顔をよく見ることを好まなかった。群臣がお目とおりする場合にも、彼の意に逆らってよく見るだけの勇気のある者はだれ一人いなかった。陸凱が孫店に意見して「いったい、君臣の間には、お互いに顔をよく知らないという道理はありません。もし思いがけない事件が突然に起こったら、どの人の所へ救いに行けばよいかわかりません」と言った。それで孫時は陸凱の願いを聞き入れて、自分の顔をよく見させた。
  • 霊運為性褊激多愆礼度朝廷唯以文義処之不以応実相許自謂才能宜参権要不見知常懐憤憤
    謝霊運は生まれつきとして気みじかで、しばしば礼法にはずれることがあった。朝 延はただ文章に優れていることで彼を待遇し、政治の実務に応じうるということを彼に認めなかった。彼自身は、自分に才能があり、権力のある重要な地位に加われるはずだと思っていたが、彼の才能を認められなかったものだから、いつも憤りの念をいだいていた。
  • 其校尉裨将以從大将軍侯者九人其裨将及校尉已為将者十四人為裨将者日李広自有伝
    その(=衛青の)校尉や副将で大将軍衛青に従っ〔て匈奴征伐に行〕った手柄で諸侯 になった者は九人、副将および校尉ですでに将になった者は十四人おり、副将になった者は本広といって、それにはそれとして伝がある。
  • 故自隴以西有緜諸翟源之戎•••燕北有東胡山戎各分散居谿谷自有君長
    だから隴(甘粛省)から以西に緜諸・翟源の異族がおり、・燕(河北省)の北に東胡・山戎がおり、おのおの分散して渓谷に居住していたが、それらそれぞれに君長がいた。
  • 昆弟三人皆流涕、抜剣自殺。
    兄弟三人はみな涙を流して泣き、剣を抜いて自殺した。
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