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重商主義の説明とその例を答えよ。貿易によって富を増やそうとする考えを重商主義といい、英の航海法や仏のコルベールによる王立マニュファクチュアの育成などが例として挙げられる。
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大西洋三角貿易の流れを説明せよ。
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三角貿易が行われることとなった背景として、17,18世紀に何の需要が激増したことが挙げられるか。砂糖 産業革命により余暇が増えたため
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西アフリカに位置する奴隷貿易に協力した国はどこか。ベニン王国
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奴隷貿易によって大陸を離れざるを得なくなり、アメリカやインド洋周辺地域に定着したアフリカ出身の人々をなんというか。ディアスポラ(離散民)
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17世紀前半から後半にかけて、商業覇権はどのようにしてどこからどこへ移動したか。17世紀前半に中継貿易によって栄えたオランダから重商主義政策によって自国の商業独占を強めたイギリスとフランスへと移った。 特に、フランスではルイ14世親政時のコルベールが政策を主導
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A:奴隷、B:砂糖、C:ベニン王国 -
奴隷貿易の対価にも用いられるある国際商品の生産地であるインドの重要性が高まる中、イギリスとフランスの東インド会社は競ってインドに進出して拠点を築いていったが、ある国際商品とは何か。インド綿布 東インド会社の競争と並行して、ヨーロッパや北米でも両国は経済覇権抗争を繰り広げた
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18世紀にイギリスとの植民地戦争を有利に進めていたフランスのインド総督は誰か。デュプレクス
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オランダは18世紀より中継貿易から植民地経営に路線を転換し、18世紀末にはマタラム・バンテンなどジャワ全土を支配し、何を形成したか、またそこで何のプランテーション経営を推進していたか。オランダ領東インドでコーヒーやサトウキビのプランテーション経営 コーヒーやサトウキビはのちに強制栽培となる
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ヨーロッパでの七年戦争と並行してインドでは英仏対立の戦いである何が行われたか。プラッシーの戦い この戦いでの勝利を機にインドにおけるイギリスの植民地から始まっていった
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1757年のプラッシーの戦いでは東インド会社の書記である誰が率いる軍隊が、フランス・ベンガル太守の連合軍を破り、英によるインド支配の基礎を形成したか。クライヴ
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イギリス最初の北米植民地は、17世紀初頭に北アメリカ南東部に作られたどこか。ヴァージニア植民地 エリザベス→ヴァージン→ヴァージニア
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1620年に基礎が作られた、イギリス本国で迫害されたピューリタンの移住地となったイギリスの植民地はどこか。ニューイングランド植民地 1730年代までに13のイギリス植民地が成立
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イギリスは17世紀後半の何戦争で、オランダが開いた何植民地を奪い、またその中心地である何をニューヨークと改称したか。第二次イギリス・オランダ戦争でニューネーデルラント植民地を奪って、ニューアムステルダムをニューヨークに改称
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1620年に国教会を強制するジェームズ1世の迫害から逃れて大西洋を渡って北米大陸へ移ったピューリタンをなんというか、また彼らがメイフラワー号に乗って大西洋に渡って北アメリカに最初に上陸した小都市の名前を答えよ。ピューリタンの名:ピルグリム・ファーザーズ、上陸した都市名:プリマス プリプリのマス
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フランスはセントローレンス河口の何植民地を中心にカナダに進出したか。ケベック植民地
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フランスはミシシッピ川流域に広大な何植民地を獲得したか。ルイジアナ植民地 ルイ14世の時代だったので、ルイ14世から”ルイ”ジアナ
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イギリスは北米大陸の植民地争いの戦争に最終的に勝利することとなったが、その最後の戦争の名前と結ばれた講和条約を答えよ。フレンチ・インディアン戦争で勝利を収め、1763年のパリ条約によってフランスは北米大陸の植民地をすべて失った。 フレンチ・インディアン戦争と並行して行われていた→七年戦争
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プロイセンとは、何家の誰がプロイセン公国を併合して成立したか。ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯
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プロイセン王国は第2代の誰のもとで軍隊や官僚制を整えたか。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
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オーストリア継承戦争は何が原因で結果どうなったか簡潔に述べよ。オーストリアで女子であるマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を相続することになったが、これに反対する声にプロイセンのフリードリヒ2世がフランスとともに同調して異議を唱えたことによって始まった。結果、鉱工業地帯のシュレジエンがプロイセン領になった。 マリア・テレジアもフリードリヒ2世も同じく1740年即位、オーストリア継承戦争も1740年開始
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1756年にマリア・テレジアは長年にわたって敵対してきたフランスと同盟を組んだがこの外交上の大転換のことをなんというか。外交革命
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七年戦争は何が原因で結果どうなったか簡潔に述べよ。マリア・テレジアがフランスと同盟し、シュレジエン奪回を目指して行われた。結果、フリードリヒ2世がイギリスの支援を受けて戦い抜き、シュレジエンを確保した。
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七年戦争でプロイセンに敗れたオーストリアではマリア・テレジアのもとで改革がはじまり、その子の誰は啓蒙専制君主として中央集権化に努めて信教の自由などの改革に着手したか。ヨーゼフ2世 啓蒙専制君主として中央集権化だけでなく宗教寛容令による信教の自由などの改革も行ったが、急激な集権化は帝国内の諸民族の反発を招いた
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近代化したプロイセンでは誰による何制が行われていたか。地主貴族ユンカーによる農場領主制
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フリードリヒ2世は啓蒙思想家である誰を宮廷に招き、「君主は国家第一の下僕」と称したため何の典型とされたか。啓蒙思想家であるヴォルテールらを招き、啓蒙専制君主の典型となった。
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「君主は国家第一の下僕」とはどのような意味だろうか。君主は国家に奉仕する存在であり、また、人々も国家への財政的・軍事的奉仕をすべきであるとした。こうして絶対主義を合理化し、上からの近代化を行った。
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16世紀にモスクワ大公国の誰が中央集権化を進めて、全ロシアの君主として正式に何の称号を用いたか。イヴァン4世が中央集権化を進め、ツァーリの称号を用いた 中央集権化を進めるに当たって農奴制を強化した
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コサックの隊長である誰の協力でシベリアへ領土を拡大したか。イェルマーク
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ロシアでは17世紀に誰が皇帝に即位したことで何朝が成立したか。ミハイル・ロマノフが皇帝に即位し、ロマノフ朝が成立
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17世紀後半に即位した誰は、徹底的な西欧化政策をとり、工業の育成や官僚制の整備を図ったか。ピョートル1世
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ピョートル1世は不凍港を求めてスウェーデンとの間で何戦争を戦い、バルト海へ進出して何を建設したか。北方戦争を戦い、首都であるペテルブルクを建設した
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啓蒙専制君主であったが、誰の農民反乱後は農奴制を強化した18世紀後半のロシア君主は誰か。エカチェリーナ2世はプガチョフの農民反乱後、貴族の特権を認めて農奴制を強化した(再版農奴制)。
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ポーランド分割について、原因とその結果どう分割されたかを簡潔に述べよ。16世紀後半にヤゲウォ朝が途絶えると貴族間の争いなどで混乱したことが原因となって、その混乱に乗じてロシア・プロイセン・オーストリアが3回にわたりポーランドの国土を分割した。1772年に3国で第1回分割、1793年のプロイセン・ロシアで第2回分割が行われ、1795年に愛国者コシューシコらがこの分割に抵抗したが続く第3回分割でポーランドは1795年に消滅した。
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エカチェリーナ2世によって日本に使節として派遣され、通商を求めた人物は誰か。ラクスマン
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