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将軍と大名が主従関係を結び、土地と庶民を統治する体制を★★★という。幕藩体制
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1615年、大坂の役(陣)が終わると、★★が出され、大名領内の多くの城の破却を命じた。一国一城令
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大坂の役(陣)の直後発せられた、諸大名の行動を規制する法令を★★★という。武家諸法度
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1615年、大坂の役(陣)のあと制定された武家諸法度は、★★令とよばれた。元和令(げんな)
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武家諸法度の元和令は、徳川★★の命によって★★★が起草し、★★★の名をもって発布された。この起草者は「黒衣の宰相」とよばれた。徳川家康、金地院崇伝、徳川秀忠
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武家諸法度の元和令は▲カ条からなる。13
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1615年7月の武家諸法度は、★に諸大名を集め公布された。伏見城
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徳川家康は▲年に亡くなった。翌年、徳川秀忠は大名・公家・寺社に対して、領知の確認文書を発給することで、全国の土地領有者としての地位を示した。1616年
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大名の領地を没収することを★★★、外様大名を辺地に移すことを★★★とよぶ。ほかに、石高を減らす減封(げんぽう)も行われた。改易、転封(国替)
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2代将軍徳川秀忠の治世の1619年に改易された広島藩主★は、豊臣政権以来の有力大名であった。福島正則
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2代将軍徳川秀忠は、1623年に将軍職を子の★★★に譲ったあとも、大御所として権力をもった。徳川家光
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3代将軍徳川家光は、★熊本の外様大名★を寛永九年に除封(改易)した。改易になった大名には、松平忠直(越前)、本田正純(宇都宮)などがいる。肥後、加藤忠広
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1634年、将軍★は、30万人余りの軍勢を率いて上洛した。徳川家光
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1635年の武家諸法度は★★令とよばれ、▲が起草し、将軍★★★が発布した。寛永令、林羅山、徳川家光
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1635年の武家諸法度で制度化された、大名が国元と江戸を1年ごとに往復する制度を★★★という。参勤交代
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1635年の武家諸法度では、参勤交代を制度化し、毎年★月を交代の時期と定めた。御三家には参勤交代の義務はなかった。4月
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1635年の武家諸法度では、★★石以上の船の建造を禁止した。500
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1635年の武家諸法度は▲カ条からなる。19
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大名とは、将軍に臣従した、★★★万石以上の領地をもつ者をいう。1万石以上
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大名のうち、★★★と★★★は要所に、★★★は遠隔地帯におかれた。親藩、譜代、外様
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大名は、徳川氏一門である★★★、★★以前から徳川氏に従って大名に取り立てられた譜代、それ以外の★★★に分かれた。親藩、関ヶ原の戦い、外様
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★★の三人の子を始祖とする尾張家・紀伊家・水戸家を★★とよんだ。徳川家康、(御)三家
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御三卿は、★★家・★★家・★★家からなる。一橋家、田安家、清水家
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御三家と御三卿をのぞく親藩は▲とよばれた。御家門
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徳川幕府の軍事力のうち、諸大名が負担するものを★★★という。平時は土木工事の普請役を課した。軍役
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幕府によって領知を認められた大名の領地と支配機構を総称して★★★とよぶ。藩
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藩の直轄領を★という。蔵入地
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大名の家臣を★★という。藩士
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★は、大名家の最上級家臣で、藩政を統括した。この下に郡奉行・勘定奉行・町奉行・代官がおかれた。家老
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藩士には、知行地を与える★★制や、蔵米を与える★★制が採用された。地方知行制、俸禄制
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藩内では城下町と村の間に、農産物などと自給できない商品との交換を目的にした定期市が開かれ、▲が形成されるようになっていった。在方町(在郷町)
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