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中国前16世紀~前11世紀殷
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占いによる祭政一致神権政治
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占いの結果を亀の甲羅・牛の骨に刻む甲骨文字
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秦王の政は、中国を統一して自らを始皇帝と名乗り、都の咸陽に富豪を移住させた。漢の武帝は、大月氏へ使節として張騫を派遣し、西方との交流を強めるとともに、朝鮮を征服して楽浪郡など4郡を設置した
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春秋時代に使用され始めた鉄製農具は戦国時代には普及し、さらに牛耕農法が発達したことで農業生産は急速に高まった。漢王室の一族劉秀は、豪族の支持を得て後漢を成立させ、光武帝と称した
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中国史上のうち漢王国建国以前にあったもの禁書・坑儒 郡県制の開始 塩・鉄・酒の専売化
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魏晋南北朝時代に関する正しいもの五胡の華北侵入・法顕がインドへ渡る
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唐の第2代太宗(李世民)の代に三省六部などの中央集計体制が確立され、貞観の治と呼ばれる善政がしかれ、律令体制が確立した。均田制の崩壊ともない、租・庸・調による微税が難しくなってきたため、新たな税制として両税制が実施され、大土地所有が進んだ。
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宋代では、官戸・形勢戸と呼ばれる地主階級の下で、佃戸と呼ばれる小作人が耕作していた。元代では、モンゴル人第一主義に基づく中国統治が行われモンゴル人の次に西城出身者の色目人が優遇された。
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モンゴル高原の諸部族を統一し、クリルタイで汗位についたチンギスハン=ハンがモンゴル帝国を建設した元がとったモンゴル人第一主義の統治が漢民族の反発を買い、さらに帝位争いや財政の悪化、天災などで社会不安が高まると、紅巾の乱がおこり、元が衰退した
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明時代 李自成を首領とする反乱軍が強大となり、この乱により明朝は滅亡した。清朝は、満漢併用制により漢人を懐柔したが、反面、辮髪を強制し、反満・反清思想を弾圧する文字の獄や禁書により中国統治を強化した。 清
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洪武帝の死後、帝位継承をめぐり靖難の変という内紛が起こり、永楽帝が即位することとなった 明18世紀後半、第6代乾隆帝の時代には中央アジアまで支配して、清の領土は最大となった。 清
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イギリスは、茶をイギリス本国へ、本国の綿製品などをインドへ、インド産のアヘンを中国に運ぶ、三角貿易を実施していた。 清朝後半変法自強運は、西太后を中心とする守旧派が起こした戊戌の政変によって失敗に終わった 清朝末期
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袁世凱の死後、中国各地に軍閥が割拠して政権を争い、内乱状態が続いた。 近代中国朝鮮半島に成立した王朝を古い順
高句麗・新羅・高麗・李氏朝鮮 -
アッパース朝は、バグダードを都のして繁栄を極めたが、支配下の異民族の抵抗などによって力を弱め、1285年にモンゴルに滅ばされた。
イスラム世界前4世紀後半、アレクサンドロス大王は東方遠征を行い、ギリシア、エジプト川へ至る広大な大帝国を建設した。 古代ギリシア -
キリスト教徒によるレコンキスタによってナスル朝グラナダ王国が滅ぼされ、イベリア半島におけるイスラム勢力はヨーロッパから駆逐された。 イスラム世界オスマン=トルコは、コンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼした。 イスラム勢力
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十字軍の遠征を通じてイスラム文化やビザンツ文化に触れたことは、ルネサンスが開花する下地となった。 十字軍の及ぼした影響中世、西ヨーロッパではローマ=カトリック教会の代表者が、ローマで殉教したペテロの後継者として教皇とよばれ、絶対的な権威を有していた。
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ユスティニアヌス帝は、北アメリカからイタリア半島、イベリア半島南部まで支配地を広げた
ビザンツ帝国教会分裂(シスマ)は、コンスタンツ公会議でようやく終結したが、この会議でベーメンのフンは異端とされ、火刑にされた。
中世後期ヨーロッパ -
イタリア=ルネサンスの美術ではレオナルド=ダ=ヴィンチの「最後の晩餐」や「モナ=リザ」、ミケランジェロの「ダビデ像」や「最後の審判」等がある。 ルネサンスポルトガルは、いち早くアメリカ西海岸の探検に乗り出し、バルトロメウ=ディヌスがアメリカ最南端の喜望峰に達した。 大航海時代
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教皇は宗教改革の動きに対抗して、トリエント公会議を開催し教会内部の粛正・刷新を図るなどカトリック教会の再建を行った。 宗教改革中世カトリック教会の見方にとらわれない生き方や考え方を目指し、近代精神の出発点となった。
ルネサンス -
コロンブスは、スペインに救助を得てアメリカ大陸(西インド諸島)に到達した。大航海時代カトリック教会は、宗教改革の動きに対し、トリエント公会議を開いて教皇の至上権と教義を再確認するとともに、イエズス会などの修道会を中心に信仰の刷新を図った。 ヨーロッパにおける宗教改革
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スペインはフェリペ2世の時代に絶対王政の最盛期を迎えたが、無敵艦隊がイギリス海軍に敗れたことで衰えた。 ヨーロッパの絶対王政ブルボン家のアンリ4世はナントの勅令を発布してユグノーの信仰の自由を承認したが、後にルイ13世が三部会を停止して絶対王政を確立していった
絶対主義 -
三十年戦争はカルヴァン派を承認するウェストファリア条約で終結し、ドイツ諸侯の主権も承認され、申請ローマ帝国はドイツでは、ウェストファリア条約により三十年戦争が終結したが、その結果諸侯の主権が承認され、神聖ローマの分裂が決定的となった。
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クロムウェルが航海法を発布し、オランダ商船のイギリス本国と植民地の港への出入りを禁止したことから、三次にわたる英乱戦争が勃発した。
「イギリス市民革命」独立達成後、憲法制定会議で連邦主義・三権分立主義・民主主義を特色とするアメリカ合衆国憲法が制定され、ワシントンが初代大統領に就任した。
「アメリカ独立革命」 -
生活設備を所有する資本家と所有しない工業労働者という、はっきり区分された二つの階級が社会の中に成立した。「イギリスな産業革命」七年戦争の後、イギリスの重商主義政策が強化され、印紙法などの課税対策に対し、植民地側は「代表なくして課税なし」の論拠を持って反抗した
「アメリカ独立に関する」 -
政治犯が収容され圧政の象徴とされたバスティーユ牢獄をパリの民衆が襲ったことが、フランス革命の発端である。「フランス革命」テルミドールの反動「クーデタ」後の総裁政府で台頭してきたナポレオン=ボナパルトは
ブリュメール18日のクーデタで統領政府を樹立した。 「ナポレオンに関する」 -
ギリシアでは露・英・仏の支援を得てオスマン=トルコからの独立を達成したが、これにより各国の利害が表面化し、ウィーン体制は動揺した。
「ウィーン体制に関する」ウィーン体制とは、多くのヨーロッパ人が望んだ自由・独立の要求を無視した保守反動体制であり、大国間の勢力均等に立脚したものである -
イギリスでは都市労働者を主体とするチャーティスト運動が起き、労働者が普通選挙権獲得を目的として人民憲章といわれる請願書を掲げ、議会へ働きかけた。「ウィーン体制末期」フランスでは、社会主義者の指導の下で結成されたパリ=コミューンが鎮圧され、新憲法制定により第三共和制の基礎が固められた
「19世紀後半ヨーロッパ各国の状況」 -
19世紀末、先進資本主義国家は、独占資本主義の段階に達し、領土や植民地の獲得戦争を引き起こした。「帝国主義」インドネシアは、17世紀以降オランダの植民地であり、19世紀にはオランダ領東インドとして支配されていた。「19世紀の東南アジア」
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大戦末期のロシア革命が起こり、ドイツとソヴィエト政権はブレスト=リトフスク条約で講和した。
「第一次世界大戦に関する」ソヴィエト政権はドイツとの間にブレスト=リトフ条約を締結し、第一次世界大戦から離脱した
「1917年に起きたロシア革命」 -
日本では、軍部の力が強まり、満州事変を機に満州国を建国したが、国際連盟のリットン調査団が撤兵を勧告したため、国際連盟を脱退した。
「1930年代前半の各国の状況戦争終結の前にアメリカ合衆国大統領ウィルソンが発した平和原則は全面的には実地されず、パリ講和会議では敗戦国に対しての報復的色彩が強かった。
「ヴェルサイユ体制」 -
すでにファシスト党のもとに政権を掌握してきた
ムッソリーニは、エチオピア侵入などの対外侵略によって、国内の不満をそらそうとした。
「世界恐慌後の各国政策」スペインでは人民戦線内閣が成立したが、地主や教会などの支持を背景にフランコが反乱を起こした。
「第二次世界大戦前夜の各国の状況」 -
カイロ会談では、日本に関し、無条件降伏と満州、台湾などの中国への返還、朝鮮の独立を決めたカイロ宣言が出された。「第二次世界大戦に関する」インドでは、ローラット法制定などのイギリスの植民地支配の強化に抵抗して、ガンディーの指導のもとに非暴力・不服従の反英独立運動が起きた。
「第一次世界大戦のアジア諸国」
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