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★★★は、松平広忠を父に天文11年に★岡崎で生まれた。徳川家康、三河
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徳川家康は1590年に関東に移封され、約★万石の領地を支配する大名となった。250万石
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江戸城は、15世紀に★が築いた。太田道灌
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1600年に、徳川家康が石田三成らを★国で打ち破った戦いを★★★という。美濃国、関ヶ原の戦い
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関ヶ原の戦いの西軍の主将は★である。毛利輝元
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関ヶ原の合戦後、京都で斬首されたキリシタン大名は★である。石田三成も京都で斬首された。小西行長
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関ヶ原の合戦のあと、▲は領地を約37万石に、▲は領地を約30万石に減らされた。各大名とも、もともとは120万石を有する大名であった。毛利輝元、上杉景勝
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関ヶ原の戦い当時、大阪城には豊臣秀吉の遺児である★★★と、その母の★がいた。豊臣秀頼、淀君(茶々)
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関ヶ原の戦い後、豊臣秀頼は▲・★・★の約★万石の大名に転落した。摂津、河内、和泉、60
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徳川家康は、1603年、★★★に任ぜられて江戸に幕府を開いた。征夷大将軍
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徳川家康が将軍宣下を受けた当時の天皇は★である。後陽成天皇
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幕府は、全国の大名に、江戸城や市街地造成の普請、国絵図と、その付録である★の作成を命じた。郷帳
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徳川家康は1605年に将軍職を★★★に譲り、家康自身は★★に移って★★となった。徳川秀忠、駿府、大御所
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1611年に▲は、天皇の即位に際し上洛し、同様に上洛した諸大名に大名誓紙を提出させ、幕府への忠誠を誓わせた。徳川家康
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★★の鐘に記された「★・★」の銘が江戸幕府にとって不適切であるとの理由で、徳川家康は大坂城を攻撃した。方広寺、国家安康、君臣豊楽
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幕府は、1614年の★★★と1615年の★★★で豊臣氏を攻め滅ぼした。大坂冬の陣、大坂夏の陣
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江戸時代に武家による戦争が一応終結し、戦乱の世が収まったことを★★という。元和偃武(げんなえんぶ)
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江戸幕府の経済的な基盤は、★★★とよばれる約★★★万石の直轄地と、約300万石の★よりなっていた。幕領(天領)、400、旗本知行地
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18世紀初頭、全国の石高はおよそ★万石であった。3000万石
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幕領(天領)の民政は★★が行い、そのうち広域を担当する者を★★といった。代官、郡代
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郡代・代官は、★★のもとにおかれた。勘定奉行
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幕府が郡代をおいたところは、関東・西国・飛騨・▲である。美濃
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将軍に直属する知行高1万石未満の家臣たちのことを★とよぶ。直参
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将軍直属の1万石未満の家臣のうち、将軍に謁見できる御目見得以上は★★★、それ以外は★★★とよばれた。旗本、御家人
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旗本は平時には大番・書院番・▲に編成され、御家人は▲・鉄砲百人組などに組織されていた。小姓組番、徒組
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幕府の軍事部門を担当する役職を★、行政・経済関係の役職を★という。番方、役方
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町奉行などの配下にいた下級役人を★、その配下を★という。与力、同心
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17世紀はじめに成立した江戸幕府では、三代将軍★★★の頃までに支配制度を確立させた。徳川家光
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江戸幕府の職制のうち、最高職にあったのは★★だが、常置ではなかった。大老
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江戸幕府の職制では、大老のいないときは譜代大名から選ばれる★★★が最高責任者として政務を統轄した。老中
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老中は、はじめ★とよばれた。年寄
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老中を補佐した役職を★★★という。若年寄
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大名を監察した★★★は、★★の支配下におかれた。大目付、老中
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旗本・御家人を監察する★★は、★★の支配下におかれた。目付、若年寄
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主要な行政は、★★・★★・★★のいわゆる三奉行が担当した。寺社奉行、町奉行、勘定奉行
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相互の役職に関わる重要事項や訴訟などについては★★で合議して審理した。この構成員は老中・★・★からなる。評定所、三奉行、大目付
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幕府の役職は、通常数名が任命され、毎月一人が実務を担当する★により進められた。月番
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町奉行は、江戸・京都・大坂・▲におかれた。駿府
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京都には朝廷監視機関である★★★をおいた。京都所司代
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大坂・駿府・二条・伏見には★★がおかれた。城代
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奈良・山田・長崎・佐渡などに配置された奉行を総称して★★とよぶ。(日光・堺などにもある)遠国奉行(おんごくぶぎょう)
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大老・老中・若年寄・寺社奉行・京都所司代・大坂城代などは★★から、その他は★★から任命された。譜代大名、旗本
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