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藤原不比等は、律令の制定に大きな役割を果たし、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、その子の皇太子(のちの〇〇天皇)にも娘の⬜︎⬜︎を嫁がせて天皇家と密接な関係を築いた。聖武(天皇)、光明子(こうみょうし)
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不比等が死去すると、皇族の〇〇が右大臣となり政権を握ったが、不比等の子の4兄弟は、729年、親王の待遇を受けていた左大臣〇〇とその妻の吉備内親王を策謀によって自殺させ、光明子と皇后に立てることに成功した。長屋王
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737年に流行した天然痘によって4兄弟はあいついで病死し、かわって皇族出身の〇〇が政権を握ると、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任されて活躍した。橘諸兄(たちびなのもろえ)
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政治情勢や飢饉、疫病などの社会的不安のもと、仏教を厚く信仰した聖武天皇は、仏教のもつ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとし、741年に〇〇を出して、諸国に国分寺・国分尼寺をつくらせることにした。ついで745年には、近江の紫香楽官で⬜︎⬜︎を出した。国分寺建立の詔、大仏造立の詔
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聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、〇〇が光明皇太后と結んで政界で勢力を伸ばした。藤原仲麻呂
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奄美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇は自分の看病に当たった僧〇〇を寵愛して淳仁天皇と対立した。道鏡
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称徳天皇が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡は退けられた。次の皇位には、藤原北家の藤原永手や式家の藤原百川がはかって、長く続いた天武天皇系の皇統ににかわって天智天皇の孫である〇〇を立てて、律令政治と国家財政の再建を目指した。光仁天皇
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