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先進地であった畿内の農村には、自治的な結合体である★★★が発展した。惣(惣村
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惣の指導者を★★という。おとな(沙汰人
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惣村では、地代としての★★を徴収する名主が勢力を伸ばした。加地子
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惣を構成する村民を★★、村の自治運営のために行われる会議を★★★という。惣百姓、寄合
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惣村の祭礼は、★★★とよばれる惣の祭祀集団によって行われた。宮座
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惣村では★★★を定め、違反するものは★★★という警察権を行使し処分した。(この例に近江国の菅浦荘がある村掟(惣掟・地下掟)、地下検断(自検断)
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惣村の共同利用地を★★という。入会地
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年貢徴収などを惣村が請け負うことを★★★という。地下請(惣請・村請・百姓請)
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室町時代中期に行われた、支配層に対する土豪・農民などの反抗を★★★という。土一揆
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田畑を捨てる行動を集団的に行うことを★★という。逃散
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農民は、▲に書いた要求が受け入れられないと、逃散や★★といった強硬手段を行った。(いくつもの惣村がまとまった、より大きな結合体である惣荘(惣郷)が結成されることが多かった。百姓申状、強訴
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神仏に誓う★★を書いて参加者全員が署名し、それを焼いた灰を入れた神水を飲み交わし、自分たちの正義と結束を確認した。このような誓約の儀礼のことを★とよぶ。起請文、一味神水
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農民でありながら侍身分を獲得したものを★★★という。地侍
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★★★は、近江で馬借が徳政を要求して蜂起したのをきっかけにおこった一揆である。正長の徳政一揆(正長の土一揆)
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★★年におこった正長の徳政一揆は、★★(国名)坂本の★★によって行われた。実力による債務破棄・売却地の取り戻しである私徳政が行われた。1428、近江、馬借
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正長の徳政一揆を撃退した当時の管領は★である。畠山満家
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正長の徳政一揆に関する記述が見られる、尋尊によって記された年代記を『▲』という。大乗院日記目録
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正長の徳政一揆の際、奈良市★の地で私徳政が行われたことを示す碑文が残されている。柳生
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1429年、★★国で、守護★★★の家臣の国外追放を主張する★★★という一揆が発生した。(義持)播磨、赤松満祐、播磨の土一揆
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1441年におこった「代始めの徳政」を要求した徳政一揆を★★★という。嘉吉の徳政一揆
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幕府が天下同一の徳政を認めたのは★★★の徳政一揆のときである。嘉吉
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正長の徳政一揆は★★★が将軍になったとき、嘉吉の徳政一揆は★が将軍になったときにおきている。足利義教、足利義勝
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室町幕府は、★という手数料をとることで、債務者には債務の破棄を、のちには債権者には債権の保護を個別に認可するという、★を考案した。債権者の債権保護を認可することを徳政禁制令ともいう。分一銭、分一徳政令
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1454年の▲の徳政一揆以後、分一徳政令は通例となった。享徳の徳政一揆
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★年、京都(南山城)を中心とした国一揆がおこった。これを★★★という。1485年、山城の国一揆
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山城の国一揆は★★★氏の国外追放を求めるものであった。畠山氏
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山城の国一揆では、★と★の軍勢を国外に追い払った。畠山義就、畠山政長
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山城の国一揆では、★年間にわたる自治的支配を実現した。8
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山城の国一揆では、寺社本所領の還付と▲の廃止が要求された。新関
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山城の国人の寄合は、★を舞台として開かれ、▲を定めた。宇治平等院、国中掟法
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山城の国一揆が記されている史料の出典は『▲』で、その著者は★寺大乗院の門跡▲である。大乗院寺社雑事記、興福寺、尋尊
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1488年におこされた一揆では、守護権力の打倒を成功させた。この一揆を★★★という。加賀の一向一揆
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★年、加賀国では一向宗信者が結集した一向一揆で、守護★★★を敗死させて以降、1世紀にわたって事実上の支配を行った。1488年、富樫政親
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加賀の一向一揆がおこった当時、近畿・北陸一帯では、浄土真宗本願寺派が、第8世★★★の旺盛な布教活動によって、勢力を拡大していた。蓮如
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加賀の一向一揆は▲を守護として擁立した。富樫泰高
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山城の国一揆は▲17年におこり、加賀の一向一揆は▲2年におこった。文明、長享
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京都では、自治を発展させていた★★★を中心とする日蓮宗の信者が、戦乱から町を守るために★★★を結び、1532年には一向一揆と戦って★★寺を焼き払った。町衆、法華一揆、山科本願寺
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京都の商工業者を基盤とした法華一揆は、1536年、★★と衝突し、焼き討ちを受けて、一時京都を追われた。この戦いを★★という。延暦寺、天文法華の乱
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