つくる
さがす
ログイン
登録
ゲスト
ログインしていません
ログイン
登録
メニュー
通知
検索
単語帳をつくる
マニュアル
フィードバック
お問い合わせ
開発者を支援
サービス稼働状況
Ankilotについて
ログイン
通知はありません
ホーム
日本史探求
日本史4
日本史4
暗記
テスト
出力
違反報告
表示設定
お気に入り
フルスクリーン表示
rad
2024年06月04日
カード
17
いいね
1
小国の分立と邪馬台国
暗記
テスト
出力
広告
単語カード
設定
全面表示
中国の史料ではこの時代の日本列島は()と記されている。()によると、紀元前()世紀ごろ、()の社会は()の国に分かれ、漢が朝鮮半島においた()に定期的に使者を送っていたという。
倭、『漢書』地理志、1、100余り、楽浪郡
漢書地理志を書いたのは?何の時代?
班固、後漢
倭の王たちは、中国皇帝の後援を受け、()ことを目的として遣使していた。
他の小国より優位にたつ
()には、()年に倭の()の王が()の都である()に遺使して()から印を与えられ、()年にも倭の王たちが共同で遣使したことが記されている。
『後漢書』東夷伝、57、奴国、後漢、洛陽、光武帝、107
後漢書東夷伝を書いたのは?何時代?
宋の范曄、晋の司馬彪
江戸時代に()県の()で発見された「()」の光武が、光武帝から与えられた印に該当すると考えられている。
福岡、志賀島、漢倭奴国王
中国では()年に後漢が滅び、()()()が分立する()となった。()を領有した()は朝鮮半島に勢力をのばし、3世紀前半に楽浪郡の南部を割いて()をおいた
220、魏、呉、蜀、三国時代、華北、魏、帯方郡
()には、倭の約30の国が中国に遣使していたことや、このころの日本列島の状況が記されている。
『魏志』倭人伝
魏志倭人伝書いた人?時代
陳寿、西晋
それによると、倭では2世紀なかごろから戦乱が続いた→()のち、諸国は()にたけて()をもつ()を共同して女王にたて、連合体をつくった。
倭国大乱、呪術、宗教的権威、卑弥呼
卑弥呼は()や()で守りを固めた居館の奥深くに住み、弟が統治を補佐していたという。その社会には()や()、()などの制度があり、各地で市もひら
かれていた。
物見やぐら、城柵、身分の差、租税、刑罰
また。()に()という役人をおき、ここを外交の窓口とした。卑弥呼は()年に魏に遣使して「()」の称号を与えられた
伊都国、一大率、239、親魏倭王
対立する()との戦争では、魏の皇帝から旗や文書を送られるなど、皇帝の権威を利用していたことがうかがえる。中国王朝の皇帝が周辺諸国の王に正式に官号・位を与えて従属的な地位におくことを()という。
狗奴国、冊封
卑弥呼が亡くなると、大型の墳墓が築かれそこに葬られた。その後、男がたったが内乱がおこり、卑弥呼の一族の()が女王となることで乱はおさまった。
壱与
壱与も魏に遣使したが、3世紀末以降は中国の()が続き,約160年間倭から中国の王朝への遺使の史料はみえなくなる。
政治的混乱
邪馬台国の九州説だったら
邪馬台国とヤマト政権は()したまたは邪馬台国が()したことになる。
同時併存、移動
近畿説だったら
()世紀には連合ができていて、邪馬台国とヤマト政権が()を待つことになる。
3、連続性
広告
コメント
コメントを送信
単語帳を共有
Twitter
LINE
はてな
アプリ
QRコード
URLコピー
キャンセル
表示設定
文字の色
デフォルト
白
シルバー
グレー
黒
赤
オレンジ
黄
黄緑
緑
水
青
紫
ピンク
文字の太さ
デフォルト
太字
文字の大きさ
デフォルトの文字サイズに加算・減算します。
px
チェック済を非表示
暗記でチェックをつけたカードを非表示にします。
カードの一部を隠す
カードの一部を指定して隠します。
表の文字
表のヒント
表の画像
裏の文字
裏のヒント
裏の画像
設定を適用する
つくる
さがす
ホーム
リスト
メニュー
小国の分立と邪馬台国