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両統が交互に皇位につく方式を―――――――――という
両統迭立
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両統迭立は―――――――統と―――――――統がある
あいうえお順
持明院、大覚寺
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幕府の仲介で両統迭立の合意があり、直後に――――――統の――――――――天皇が即位した
大覚寺、後醍醐
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後醍醐天皇は――――――――や――――――――の討幕運動を展開した。
怒った順番で
正中の変、元弘の変
1324年、1331年
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―――――――(1331年)後、――――――――は隠岐に流された
承久の乱、後鳥羽上皇
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1331年、持明院統の―――――――が両統迭立の仕組みにより即位した
光厳天皇
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光厳天皇の即位に対し、後醍醐天皇の皇子である―――――――が挙兵を呼びかける
護良親王
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足利尊氏は源氏 or 平氏
源氏
足利荘司源次郎尊氏 あしかがしょうじみなもとのじろうたかうじ
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新田義貞は源氏 or 平氏
源氏
上野国新田荘の御家人の源義貞
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楠木正成はどこの悪党?
河内
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建武の新政は―――――――を目指した
漢字4文字
天皇親政
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建武の新政は、天皇に権限が集中しないような政治の仕方
正誤で答えて
誤
天皇への権限集中をはかった
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―――――(天皇の側近)が天皇の意向を奉じて作成した文書を―――――――という。
蔵人、綸旨
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あらゆる決定を後醍醐天皇の綸旨でおこなった
正誤で答えて
正
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持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できないと――――――――で定められていたが、所領の確認を―――――――でおこなうとしたため、武士層が離反した
御成敗式目、綸旨
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綸旨絶対主義は、武士層は反発したが、貴族層は受け入れた
正誤で答えて
誤
先例を無視した政治のため、貴族層も反発
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建武の新政は崩壊へ… 画像の名前を答えて
二条河原の落書
この頃都にはやるもの、夜討、強盗、偽綸旨
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北条時行🆚足利直義 の戦いをなんという
中先代の乱
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中先代の乱は――――――の子の――――――――🆚―――――――――(足利尊氏の弟)
北条高時、北条時行、足利直義
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足利尊氏🆚後醍醐天皇軍(楠木正成、新田義貞)の戦いをなんという
足利尊氏勝利🏆️
湊川の戦い
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北朝で、足利尊氏は―――――――統の――――――天皇を立てた(1336)
持明院、光明
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建武式目の政治方針は――――条ある
半角数字で
17
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南朝で、後醍醐天皇は―――――へ逃れる
吉野
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南北朝の動乱は約――――年間
60
1336〜1392
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八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉をあわせて――――――――という?
三種の神器
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南朝では――――――――らが中心となり抗戦を続けた
北畠親房
きたばたけちかふさ
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観応の擾乱は―――――――(足利尊氏の執事)🆚 ――――――――
高師直、足利直義
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南北朝の動乱が長引いた結果、武家社会では―――――――ではなく――――――が一般化した
所領の細分化
分割相続、単独相続
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公家・寺社が支配する荘園・公領の年貢半分を兵糧米として守護が撤収、分給できる権利を――――――という
半済令
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守護が年貢徴収を請け負うことを――――――――という
守護請
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守護の中には一国全体におよぶ地域的支配権を確立するものもいた
正誤で答えて
正
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南北朝の動乱は、―――――――が―――代将軍になる頃には次第に収まった
足利義満、3
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有力守護を討伐した戦いで、山名氏清を討伐したのを――――――――という
明徳の乱
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有力守護を討伐した戦いで、大内義弘を討伐したのを――――――――という
応永の乱
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足利義満は、―――――と――――――――によって権力の大きさを誇示しようとした
あいうえお順
相国寺七重塔、花の御所
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南北朝の合一が実現し、天皇は―――――――天皇から―――――――天皇になることになる
後亀山、後小松
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南北朝の合一で、両統迭立が約束され、ずっと守られた
正誤で答えて
誤
結局ずっと北朝が皇位を独占した
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足利義満は征夷大将軍を義持に譲り、――――――――に就任(1394年)
太政大臣
公家のトップ
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室町将軍中で、将軍在職期間が最長は――――――――
足利義持
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細川・斯波・畠山をあわせて――――――という
三管領
さんかんれい
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赤松・一色・山名・京極をあわせて――――――という
四職
ししき
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鎌倉公方は――――――の子孫が受け継ぐ
足利基氏
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鎌倉公方の補佐を――――――という
関東管領
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地理爆速で進みすぎてやばい笑
歴史70点台の壁越えたい…
#西大和学園 #西大和 #42期 #後期中間 #歴史がんばるぞーおー