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五街道は、東海道・★★・★★・★★・奥州道中である。
中山道、甲州道中、日光道中
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五街道の起点は江戸の★である。
日本橋
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五街道は★の直轄下で管理した。
道中奉行
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品川・大津を通る街道を★★、板橋・草津を通る街道を★★という。
東海道、中山道
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本街道に対し、補助的な街道を★と称した。
脇街道
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脇街道とされるものの中で、四日市と山田の間を結ぶものは▲である。
伊勢街道
その他の脇街道:北国街道、中国街道、長崎街道
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東海道には、江戸・京都間に品川から★まで★(数)の宿が置かれた。
大津、53
京都・大阪間には4宿がおかれた。
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中山道には、★から近江守山まで★宿がおかれていて、東海道の▲で合流した。
板橋、67、草津
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甲州道中は▲で中山道と合流し、始宿の▲までの間に44の宿を置いた。
下諏訪、内藤新宿
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街道に設置された里程標を★という。
一里塚
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街道には★★★がおかれ、通行手形の提示が求められた。
関所
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★★★・★★は、東海道に置かれた関所である。
箱根・新居
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★★・★は、中山道に置かれた関所である。
碓氷、木曽福島
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★は、奥州・日光両道中におかれた関所である。
栗橋
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★は甲州道中に設けられた関所である。
小仏
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関所で最も警戒したとりしまりの対象は「★★に★★」である。
入鉄砲、出女
江戸に入る鉄砲と、江戸から出て行く大名の妻女を厳しく取り締まることで、諸大名の謀反を予防した。
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★川では川を渡るのに川越人足を利用していたが、増水の時には川留となった。川留によって宿泊客が増加して繁盛した宿場は金谷宿と▲宿であった。
大井川、島田宿
天竜川は渡し船で渡る河川であった。
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宿駅(宿場)におかれた人馬のつぎ立てのための施設を★★★という。
問屋場
宿駅(宿場)はおよそ2〜3里ごとにおかれた。
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『東海道五十三次』には、▲の問屋場でのつぎ立てが描かれている。
藤枝
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各宿場で常備することになっていた人足の数と馬の数は、東海道は★人・★疋であり、中山道は▲人・▲疋であった。
100,100、50,50
その他の街道は25人・25疋常備された。
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大名などの宿泊する宿場には、★★★や★があった。
本陣、脇本陣
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旅宿設備のうち、一般庶民用の宿舎は、当初は薪代を払い、自炊する★★であったが、やがて寝具酒食の設備を整えた★★が出現した。
木賃宿、旅籠屋
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飛脚には、幕府公用の★★、諸藩専用の★★、三都の商人による★★があった。
継飛脚、大名飛脚、町飛脚
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町飛脚は、江戸到着までに要した日数にちなんで「▲」ともよばれた。
定六
じょうろく
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★★★は、慶長の頃、大堰(保津)川、富士川、天竜川、さらに高瀬川などの水路を開いた。
角倉了以
彼は京都の豪商であった。
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江戸時代の主な航路には、奥羽地方日本海沿岸諸港から津軽海峡を経て太平洋沿岸を南下して江戸にいたる★★★と、日本海沿岸諸港と大坂を関門海峡経由で結ぶ★★★がある。
東廻り航路、西廻り航路
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★★★は、東廻り航路・西廻り航路を整備した。
河村瑞賢(軒)
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1684年に河村瑞賢が開いたといわれる河川は、大坂にある▲川である。
安治川
あじ
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江戸と大坂を結ぶ航路を★★という。
南海路
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江戸と大坂間の定期船である★★★廻船は、18世紀には★★★廻船に圧倒された。
菱垣廻船、樽廻船
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南海路は、江戸時代後期からは尾州廻船の一つである★船が往復した。
内海船
伏見と大坂の間を航行した淀川の川舟は過書船とよばれた。
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江戸時代中期以降、西廻り航路では日本海沿岸の船である★★が活躍した。
北前船
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北前船は、大坂や北陸方面と★を結んだものであった。
松前
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江戸・大坂・京都を総称して★★という。
三都
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江戸が「将軍のお膝元」と呼ばれたのに対し、大坂は「★」とよばれた。
天下の台所
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当時の人口は、江戸★万人、大坂35万人、京都40万人と推定される。
100万人
当時の江戸は世界有数の大都市であった。
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江戸の全人口のうち、武家人口の占めた割合はおよそ▲%である。
50%
18世紀以降の日本全国の人口は約3000万人。現在の4分の1程度であった。
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