41.室町幕府の展開と動揺
暗記
迂闊
2021年07月18日
カード27
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1390年に★★・尾張・伊勢の守護である★★氏(中心人物★)の勢力が削減された。
美濃、土岐氏、土岐康行
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足利義満は守護大名の統制をはかるため、1391年の★★★の乱で11カ国の守護であった★★★を滅ぼした。
明徳の乱、山名氏清
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11カ国を領有して★★★とよばれた山名氏清は、3代将軍足利義満に挑発され、1391年に挙兵して敗れた。
六分一殿
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周防・長門など6カ国の守護大名であった★★★は、足利義満に討伐された。
大内義弘
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1399年に、大内義弘は鎌倉公方▲と結んで反乱をおこしたが、★に籠城して敗死した。この戦乱を★★★という。
足利満兼、堺、応永の乱
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足利義満は1394年に征夷大将軍を辞して、公家としての最高の官職である★★★となった。
太政大臣
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足利義満は、死後に朝廷から「太上法皇」の尊号を贈られたが、彼の後継者の★★がこれを固辞した。
足利義持
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1416年に、関東管領上杉氏憲が鎌倉公方★★に対して反乱をおこした。これを★★という。
足利持氏、上杉禅秀の乱
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★年、★★★が急死し、翌年弟の足利義教が6代将軍になった。
1428年、足利義持
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★から還俗して6代将軍となった★★★は、管領以下の有力守護勢力の幕政への関与をおさえて、将軍による専制政治を強行しようとした。
天台座主、足利義教
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1439年、将軍★★★は幕府に背いた鎌倉公方★★★を討った。これを★★★という。
足利義教、足利義持、永享の乱
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永享の乱は、鎌倉公方と、関東管領★★★の衝突が原因でおこった。
上杉憲実
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足利義教は、1440年、★の遺子を擁して挙兵した下総国の★を鎮圧した。
足利持氏、結城氏朝
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1441年に、6代将軍★★★が、★★の守護★★★に暗殺された。この事件を★★★という。
足利義教、播磨、赤松満祐、嘉吉の変
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赤松満祐は、幕府軍の★らに攻められ自害した。
山名持豊(宗全)
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6代将軍足利義教が殺害されたあと、★が7代将軍になった。
足利義勝
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1467年から11年間にわたって京都市中が主戦場になった戦争は★★★である。
応仁の乱(応仁・文明の乱)
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応仁の乱は、将軍★★★の治世から次代の★★★の在職初期にかけてであった。
足利義政、足利義尚
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8代将軍足利義政の弟★★★と、義政の妻★★★が推す自身の息子★★★との間で激化した将軍家の家督争いが、応仁の乱の一因である。
足利義視、日野富子、足利義尚
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幕府の実権をめぐって争っていた管領の★★が将軍の弟足利義視を、有力守護大名の★★が将軍義政・足利義尚を支援して対立が深まり★★年に応仁の乱が始まった。開戦2年目に、足利義視は山名方につき、足利義尚は細川方についた。
細川勝元、山名持豊、1467年
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応仁の乱の際、将軍家以外に★★氏・★★氏の家督相続争いもおこった。
畠山氏、斯波氏
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応仁の乱では、畠山氏は★★と★★が、家督争いを行った。
畠山政長、畠山義就
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応仁の乱では、斯波氏は★と★が家督争いを行った。
斯波義敏、斯波義廉
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応仁の乱では、東軍の総大将は★、西軍の総大将は★であった。
細川勝元、山名持豊(宗全)
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応仁の乱では★★とよばれた軽装の傭兵の活動が目立った。
足軽
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『▲』は、応仁の乱での足軽の活躍を描いた絵巻物である。
真如堂縁起
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10代将軍足利義稙は1493年、管領であった★によって廃された。
細川政元
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